読書レビュー:『グリム、イソップ、日本昔話-人生に効く寓話』(池上彰/佐藤優)

読書

読みたいと思ったきっかけ

佐藤優氏の著書、それも池上彰氏との共著であれば買わない理由はない。

この2人のシリーズはほとんどの書籍を買っているように思う。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに 池上彰
プロローグ 現代に昔話のページを開く意味
第一章 ギスギスした弱肉強食社会を知る
第二章 競争社会の作法
第三章 競争社会の人間性
第四章 寓話、昔話を読む意味
おわりに   佐藤優

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

はじめに(池上彰)

※特になし

プロローグ(現代に昔話のページを開く意味)

※特になし

第一章(ギスギスした弱肉強食社会を知る)

■狐には、高い木になった果実をジャンプして取るような適性はなかった。そもそもぶどうという食べ物自体が、性に合わないものだったということになります。にもかかわらず、「現代の狐」たちもまた、みんながぶどうを取ろうとして、同じ舞台で競うのです。競わされる、と言ったほうがいいと思うのですが。(佐藤)問題はそこですよね。その競争は、あなたの適性に合致しないから無駄骨に近いですよ、と言ってもなかなかわからない。(池上)

■考えてみれば、人は口癖のように「困難に挑戦しろ」と言いますけど、無理なものは無理なのです。そういうものに拘って、いつまでもぴょんぴょん跳ねているというのは、人生の大事な時間とエネルギーの浪費だと割り切る。視野を広げて歩き回れば、おいしくて栄養のある食べ物が、意外に身近に見つかるかもしれないのですから。(池上)適性がないミッションには早々に見切りをつけて、新しいことを考える。それはいいかげんなことでも、惨めなことでもないのです。(佐藤)

■なるほど。極楽に行けることを信じて、ひたすら上を見て登っていけばよかったのに、なまじ足元を見たばっかりに、厳しい現実が目に飛び込んできた。それで、「やっぱりだめだ」と諦めてしまうこともあるかもしれません。(池上)本気でステップアップを図ろうという時に、あえてネガティブな現実を見るようなことをしても、あまりいい結果には結びつかないことが多いのです。そういうことも、この話からリアルに学ぶ必要があるでしょう。(佐藤)

第二章(競争社会の作法)

■非常に理不尽な話にも思えます。ただ、「倍返し」されたおじいさんには悪いのですが、この話から我々がくみ取るべき教訓があるとすれば、「人生というステージにおいて、踊りを踊って評価されるチャンスは限られる」「特にデビュー戦は決定的に重要である」ということだと思うんですよ。これは、ビジネスの現場においてもそうだし、芸能界とか論壇とかをみれば、それがより顕著であることがわかるでしょう。(佐藤)

■レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉だともされる「幸運の女神には前髪しかない」ということですね。「好機の神」とされるカイロスは、出会った人が摑まえやすいように髪が前に垂らされているものの、後ろ髪はありません。なので、それを逃すと、もう追いかけて摑まえることはできないわけです。(池上)

■最近の日本人が「猫の草紙」をあまり知らないというのは、一時期まで右肩上がりの夢が見られたからかもしれません。頑張れば成長できる時代に、「お互いに自分の生まれついた身分に満足して」という思想は馴染みませんから。ただ、とりあえずは幻想を捨て、繰り返しになりますが、自らは猫であることを自覚する。(佐藤)

■おっしゃる通り、会社というものこそ竜宮城、異界と考えるべきでしょう。みんなでワイワイ仕事をしていればよかった、毎日が忙しく過ぎていったーーなんて日々は、定年退職後には数日間の夢のような話だったといわれれば、そんな気がします。毎朝、通勤ラッシュに苦しんでいるときはなかなかそう思わないかもしれませんが、行く場所がなくなる定年後に組織に属していた楽しい日々が終わったことを痛感すると思います。(佐藤)日常だと疑わない会社中心の生活が、実は一緒に踊ってくれる人がたくさんいる異界である。現役ビジネスパーソンは、今からその認識を持つことをお勧めします。(池上)

■そのときに、「待てよ、人生に定年はないんだ」と考え直して、本当の意味での第2の人生に踏み出せるかどうかが勝負になりそうです。(池上)そうです。ビジネスパーソンの定年というのは、ようやく異界から戻って、陸に上がったところ。そこからは、心の中の玉手箱を開けるか開けないか、開けるとしたらいつにするのかの戦いが始まるのです。(佐藤)そこからの人生も十分長いですからね。(池上)

■つまるところ、これは自己責任の話です。アリは将来に備えて蓄えたから助かった。それを怠ったキリギリスが窮地に陥るのは当然で、今さら助けを乞うのはお門違いではないのか。(佐藤)

第三章(競争社会の人間性)

■これは、してはならないことでした。たとえ女王であっても、別の秩序の支配するところでは、勝ち目がないのです。「白雪姫憎し」の感情が先に立つあまり、女王には、その大事なところが見えなくなっていました。私にはこの女王の行動原理は、自分たちの価値観こそ絶対と信じて疑わない、現代のアメリカ流グローバリズムに通じるものがあるように感じられます。

■自分を限りなく有能だと思っている人も、そういう「自傷的」な人も、ベクトルの向きは違うけれども、自分に対する関心が過剰だという点では同じです。邪魔者は消してしまおうというほどの女王の自己愛は異常だとしても、似たようなタイプの人は、どこの組織にもいるのではないでしょうか。(佐藤)

■そういういわば特殊な地域が舞台の神話なのですが、ここには現代まで通用する非常にシンプルかつ重要な教訓が語られています。あともう少しで陸まで渡り切るというミッションを成し遂げるところまでいった兎が、最後の最後に「本当のこと」をサメにポロッと漏らしたために、捕らえられて毛を剥がれるという憂き目に遭った。「世の中には『言ってはいけない』ことがある。余計な種明かしをすべきではない」という話の教材として、私はこの「因幡の白兎」も外務省時代によく使っていました。(佐藤)

■仕事上で多いのは、どうしても自慢したくなって、「これはオフレコなんだけど」って重要な秘密を漏らしてしまうパターンです。例えば、勤める会社がやろうとしていたM&A(企業の買収、合併)の話が日本経済新聞に抜かれて、直前にポシャるようなことがあるでしょう。自分はこのプロジェクトに関わっているのだ、みんなが見えないところでこんなに苦労しているんだ、とうのを少しでも認めてほしいという思いがあるものだから、ついつい誰かにしゃべってしまう。冷静に考えれば、その一言が身の破滅につながるリスクが、多分にあるにもかかわらず。(佐藤)

■知らないと恥だという意識が、特に日本人の場合は強くありますから。いずれにしても、自分の身を守るためには、「余分な一言」はご法度なのだということを、心に刻むべきだと思います。(佐藤)

■「この情報はいらない」と思ったら、「私には教えないでいい」とシャットアウトするのも、組織で生き延びる知恵と言えますね。モサドの長官とはレベルが違うけれども、私も会社にいた頃に、そういう対応をしたことが何度かありました。(池上)

■そのうえで、「わかり合えないけれど、お互いを認める」という部分を持てるかどうか。わかりやすく言えば、妥協の連続を許せるか、ということになるのではないでしょうか。夫婦の間でものごとを詰めすぎる、あまりハッピーなことにはならないと考えたほうがいい。(佐藤)

第四章(寓話、昔話を読む意味)

■山中の料理店は、戦争以外にも様々あります。私のような入獄体験もそうだし、病気、リストラ、親しい人との別離などというのも、実は料理店なのです。予期せず、目の前に現れるそこを通り抜けることで、世界観が不可逆的に変わってしまう。人生の中には、大なり小なりそういうものがあるのだ、というメタファーが作中に込められているから、これだけ読み継がれているように思うのです。(佐藤)

■ただし、現実を見ると、残念ながら「深く考える」ということが軽視される、ともすれば嘲笑の対象になるような風潮の広がっているのが、今の日本です。かわって勢力を伸ばしているのが、「籔の中は、どうせわからないでしょう」「真実かどうかなんて、私には関係ありません」というニヒリズム的な傾向です。(佐藤)

■注意すべきは、その時代における支配的な思想は、イコール支配者階級の思想だということです。そうした視点から彼らを見ないと、過小評価につながる恐れがあるでしょう。国家権力を認めないのならば、アナーキズムと親和性が高くなるというのが伝統的なニヒリズム。繰り返しになりますが、彼らは既存の権威など糞くらえという態度を取りながら、最大の暴力装置である国家との闘争は回避しています。(佐藤)

■スキルアップは必要かもしれませんが、それだけではなかなか世界は広がりませんよね。じんわり血肉になるような、いわゆる教養を身につけることは、やがて仕事にも役立つはずだし、新自由主義の世の中で自分を見失わないための、よりよい生き方の指針にもなると思うのです。(池上)実はそういうのは、かつては居酒屋や喫茶店で、上司や先輩が後輩の相談に乗ったりしながら、熱っぽく語っていたことでもあるんですよ。(佐藤)

おわりに(佐藤優)

■本文でも強調したが、私の認識では、現下の日本社会が直面する最大の思想的危機はニヒリズムだ。ニヒリズムの立場を意識的のみならず無意識のうちに採る言論人は、自分が述べている言説が真実であると信じていない。発話主体の誠実性に欠けていても、それを問題と感じないのだ。「人間はどうせいつかは死ぬ。死んだら無になる」という諦めから、自らの人生に真面目に取り組もうとしない。

■フロマートカから学んだ事柄の一つは、ニヒリズムは悪魔に起源を持つので、キリスト教徒はそれと闘わなくてはならないということだ。これは人間の理屈を超えた神からの命令なのだ。

コメント

合計で20個の寓話・昔話のあらすじを紹介したあとに、それぞれ一般的にどんな読まれ方・教訓が引き出されているかを確認し、それとは別角度での池上彰氏や佐藤優氏の独自の解釈などが紹介される書籍構成となっている。

ある程度馴染み深い物語がある一方で、初見のものあったので、単純に知らない寓話・昔話を知ることができたという点も良かった。

個人的には浦島太郎の話での「会社こそ竜宮城」という解釈が面白かった。

「日常だと疑わない会社中心の生活が、実は一緒に踊ってくれる人がたくさんいる異界である」というのは、会社組織から離れるタイミングが絶対に来ることからも頭の片隅に置いておくべきことだと感じる。

「当たり前の日常だと思っていることが必ずしもそうではない」という視点は、寓話・昔話といった物語をベースにしておくと記憶にも定着しやすいし、折に触れて思い出しやすいのもメリットか。

また本書の終盤において語られる「現下の日本社会が直面する最大の思想的危機はニヒリズム」というのも興味深かった。

「『人間はどうせいつかは死ぬ。死んだら無になる』という諦めから、自らの人生に真面目に取り組もうとしない」という指摘は自分自身にも当てはまるように感じてしまい耳が痛い気分。

ただ、このあたりは「努力が必ずしも実になるものではない」という諦念と結びついているような気がしなくもない。

会社に対してフルコミットするが、それがなくなったときに空っぽになる。

ある種の諦念を持っていればそういったリスクを回避できるものの、それは自分自身の人生に対しても真面目に取り組みづらくする側面が出てくるように思う。

右肩上がりの時代に会社や組織に全力投球することが多くの人にとって理に適っていた時代から、そういったフルコミットがリスクと認識されることで回避術としてのニヒリズム的な態度を取る時代へと変化したとも言えそう。

ただ、そのニヒリズム的態度が今度は話者の誠実性を欠き、自分自身の人生に対しても真面目に取り組まなくなってしまうという弊害をもたらしている・・。

要はバランスの問題なのだろうけど、中庸を取ることは難しいのかもしれない。

それではどういったスタンスで物事を見ていき、アクションを取るべきなのか。

その答えはきっとフルコミットとニヒリズムの間にあるはずだが、それはケースバイケースで答えは一つにはならないような気がしている。

これは各人がそれぞれどういった態度で望むべきか、それぞれのメリット・デメリットを踏まえながら、バランスを考えながら構築していくしかなさそう。。この態度は中途半端な気がして、あまり我が意を得たりという感じにはなりづらそうだが。

自分自身の仕事観や人生観をふと立ち止まって考えるきっかけになるので、そういった視点からもオススメできる1冊。

一言学び

会社というものこそ竜宮城、異界と考えるべき


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