読書レビュー:『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(橘玲)

読書

読みたいと思ったきっかけ

橘玲氏の著作は基本的に買うようにしている。今回も著者買い。

読書レビュー:『バカと無知』(橘玲)
プラトンの哲人政治のようなイメージなのか・・・。 最近ではイタリアで右派政権が誕生したりと、世界各国でポピュリスト的傾向を帯びた政党が躍進しているが、こうした運動が一般的に大衆に支持されたものだとすると、本格的に資本家、知識人といった社会階層上部の人々が嫌悪感を抱いて、そこから脱出する術としてより資本主義を徹底して格差を拡大していくことで、テクノロジーを用いて大衆も満足させながら、現実世界への影響を完全にシャットアウトする方策を取るかもしれない。 直感的には嫌な印象を受けるものの、少し考えていくと「そういった世界で何も知らずに幸せに時を過ごすのも悪くないのかもしれない」と思い始める。 自分の認知としては知らなければ世界は存在しないわけで、そうであれば特にそういった体制に憤慨することもないだろう。これは諦念なのかわからないが・・・。 いずれにしても橘玲氏の著作を読むことで政治社会の問題の裏に、集団・個人の進化論的な理由がなにかしら影響していることがわかる。 先日読んだ『シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラヴィカント』のなかでも進化論を学ぶべきこととして挙げられていた。 現代社会を理解するうえで進化論は必須の知識・教養となってきている気がする。
読書レビュー:『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』(橘玲)
本書の内容については『スピリチュアルズ』や『無理ゲー社会』のなかで記載されていた内容と重複する部分はあるが、PART5のこの世界の切り抜け方については上記2冊では触れられていなかったように思う。 昨今のFIREやミニマリストの隆盛が、この無理ゲー社会を生き抜く手段であるという点は合点してしまった。 経済格差の拡大に対応する形で、FIREを目指し、なるべく不必要なものを買わず、捨てるというミニマリストをベースとするのは、最近自分も囚われている思想だったので、そこに意識的になれたのは本書を読んで1番良かった点。 橘玲氏の著作については、Amazonレビューなどを見ると辛辣な意見も書いてあったりするが、自分としては毎回海外の事例を知ることができたり、現代社会の潮流とそれに対する人々の反応など、トレンドとその理由を知るきっかけを与えてくれるので、そこまで否定的な意見はない。 まあ確かにここまで著者が有名になると自己啓発書ではないが、読んでいて楽しい、気分が良いから著書を買うという側面も否定できない。 そういう意味では本書はわたしにとっては自己啓発書や娯楽小説のようなものなのかもしれない。

基本的には新作は買うようにしており、本書も例に漏れず購入した。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに    
PART0 DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ
PART1 「正しさ」って何? リベラル化する社会の混乱
PART2 善悪を決められない事件
PART3 よりよい社会/よりよい未来を目指して
PART4 「正義」の名を騙る者たち
あとがき  

内容

はじめに

■同じ事実を共有していて、間違った論理を信じているのなら、正しい論理で説得することは可能でしょう。しかし、異なる事実の世界を生きているひとに対しては、どのような説得も不可能です。自分が生きている世界が幻想だ(なんの意味もない)という”ファクト”を受け入れたら、生きている意味は消失し、アイデンティティは崩壊してしまうでしょう。これはとてつもない恐怖なので、どんなことをしてでもオルタナティブな事実(ファクト)にしがみつくしかないのです。

■ところがその後、「DD」はネット上の議論に転用されます。こちらは「どっちもどっち」の略で、双方に言い分があるという立場です。それに対して、「わたしが正義」だと主張し、悪を”糾弾”する立場を「善悪二元論」と呼びましょう。

■人間(脳)は、その構造上、自分を中心に世界を理解するしかありません。ここから、「特別な自分には、特別なことが起きて当たり前」という錯覚が生じ、当たるはずのない宝くじを買ったり、ネット詐欺に簡単にだまされたりします。

PART0:DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ

■ウクライナ侵攻によって、これまで中立だったフィンランドとスウェーデンがNATOに加盟し、プーチンの思惑とは逆にNATOの拡大は加速しています。ドンバスの住民を救済するどころか民間犠牲者は増大し、ドンバス以外でもロシア語系住民は「敵性国民」と見なされることになりました。さらに、ウクライナを民主化するどころか、「まさにこの戦争によって、ウクライナ政治における右派民族主義者の地位は揺るぎないものになり、野党は撲滅され、(ロシア寄りの)ウクライナ正教会は激しい抑圧を受けている」のです。国家首脳の政治的判断のなかでも、これほどの大失態はめったに見られないという惨状です。

■なぜこのような不祥事が、国境を超えていたるところで起きるのか。それは、「正義」と「利権」がコインの裏表のような関係にあるからでしょう。差別されていたひとたちに代わって加害者に謝罪と補償を求めるのは人権団体の重要な役割ですが、正義は権力であり、自分たちの掲げる正義が大きければ大きいほど、巨額の金銭が動く機会が増えます。わたしたちは誰も聖人君子ではないのですから、当初の高邁な理想が金儲けに変質したり、あるいは理想と利権が「両立」したりすることになるのです。

■イスラエルとパレスチナ人がともに「犠牲」を強調するのは、リベラル化した現代社会では犠牲が「正義」の証明になるからです。そのため国家は、自らの正統性を確立するために、民族の悲劇を強調するようになりました。典型的なのは泥沼内戦になった1990年代の旧ユーゴスラヴィアで、クロアチア人はセルビアの覇権主義の犠牲者で、ムスリムのボスニア人はキリスト教徒(正教徒やカトリック)の犠牲者で、セルビア人は周囲の民族からつねに搾取される犠牲者でした。

■自分たちは「犠牲者」だと言い立て「加害」を否認するのは、民族主義者(ナショナリスト)の特徴です。絶対平和を唱える日本のリベラルは、民族主義の一変種なのです。

■近年の脳科学は、記憶は脳のハードディスクに蓄えられているのではなく、思い出すたびに(微妙に)書き換えられていることを発見しました。では、どのように記憶は書き換えられているのか?もちろん、「自分にとって都合のいいように」です。

■だとすればわたしたちは、これからもDDと善悪二元論の微妙なバランスを取りながら、なんとかして社会の秩序を維持するよう、綱渡りを続けるしかなさそうです。この中途半端な結論に納得できなひともいるかもしれませんが、個人や集団、国家や民族、宗教の複雑な利害がからみあうこの世界は、本質的にDDなのです。

■私が新疆で目にしたのは、「抑圧」による平和の実現です。ウクライナやガザの悲惨な状況が日々報じられるなかでわたしたちが問われているのは、実現するはずもない空理空論を大きな声で唱えることではなく、「人権抑圧」と「戦争(内乱)」の選択肢しかないとしたら、どちらを選ぶのかという重い問いなのです。

PART1:「正しさ」って何? リベラル化する社会の混乱
※特になし
PART2:善悪を決められない事件

■女性の場合、絶望は内に向かい、うつ病や自殺未遂につながりますが、男性は怒りが特定の相手に向かいやすく、時には無差別殺人を引き起こすという性差も確実にあります。

■売春が世界最古の職業といわれるように、男女の性の非対称性から、突き詰めていうならば、男の目的はセックスで、女の目的はお金です。しかし女の理想は「愛されること」でもあり、だからこそ”ギバーおぢ”から稼いだお金をホストに巻き上げられることになるのです。

PART3:よりよい社会/よりよい未来を目指して

※特になし

PART4:「正義」の名を騙る者たち

※特になし

あとがき

※特になし

コメント

本書は、Part1〜Part3が『週刊プレイボーイ』に連載されていた記事がベースであり、Part4は『週刊文春』『サンデー毎日』に掲載された記事がベースと記載があるので、Part0だけが本書のオリジナルになっているもののようだ。

雑誌連載をまとめたものが大半なので、少し古いニュースも取り上げられているが、そこは仕方ないところか。

本書のなかでもやはり面白かったのはオリジナルのPart0の部分。

ウクライナ、ガザ、ヒロシマをDD論と善悪二元論、犠牲者意識ナショナリズムの視点から読んでいくもの。

犠牲者意識ナショナリズムについて扱った林志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』については各紙新聞書評において取り上げられていたので、その存在は本書の前から知っていたが、ここではこの書籍がキーになっている。

「『犠牲』を強調するのは、リベラル化した現代社会では犠牲が「正義」の証明になるから」というのは、納得のいくところで、だからこそ自分がどれだけ犠牲を払ってきたか、被害を受けてきたかを主張する。

しかしながら、当然のことある場面では犠牲者であっても、別の場面では加害者であるというのは別に国家の歴史、政治史に関係なく、個人レベルでも起こること。

ホントは加害者であったときもあるのに、それを犠牲者であることを大きくフォーカスすることでオーバーライドする。

これは割と頻繁に散見される事象であるように思う。

じゃあどうするの、と言われると、結局うまくバランスを取っていくしかないという結論になるのはその通りだと思う。

でもこういった態度は「中途半端」とも捉えられやすいし、そういう意味であまり評価されないような気もまたする。。。

一言学び

個人や集団、国家や民族、宗教の複雑な利害がからみあうこの世界は、本質的にDDなのです。


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