読書レビュー:『子育て指南書 ウンコのおじさん』(宮台真司)

読書

読みたいと思ったきっかけ

『父親になるということ』の文庫版の付録としてエッセイを寄稿しているのが宮台真司氏であり、久しぶりにその文章に触発されて購入したのがきっかけ。

内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

プロローグ 悲願!ウンコのおじさん。
子どもにかまうヒマがあったらセックスしてろ
コントロールすることの愚
ウンコのおじさんの心得とルール
エピローグ 「ウンコのおじさん」であるために

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

プロローグ(悲願!ウンコのおじさん。)
Ⅰ(子どもにかまうヒマがあったらセックスしてろ)

・社会を生きるのに役立つ<妄想>が、受け渡されなければなりません。<妄想>が社会を生きるのにふさわしいかどうかを評価するのが「父の役割」です。

・神経症は不安の埋め合わせです。鍵を閉めて出かけたのに、気になって戻りたくなり、戻って確認しても不安が消えないから、また戻って確認する……。本当の不安は、鍵の閉め忘れではない。親に捨てられる不安だったり、死の不安だったりします。本当の不安は手つかずのまま。だから反復が永続するのです。

・不安な人は、損得勘定にめざとくなり、損得を超えた愛や正しさを示せなくなります。そんな親は、損得に拘泥する、愛や正しさの乏しい子どもを育てます。

・親が抱え込むと、親による承認が与えてくれるプライドの高さと、社会のなかで何者であったこともないという自信のなさが、乖離します。すると、子どもは自己防衛的になります。「家族がどうあれ、社会がどうあれ、僕は僕だ」「まわりがどうあれ、自分は自分だ」みたいになれません。

・「自分は自分」になるためには「絆で結ばれた、変わらない仲間」が必要です。昨今は「絆のない、変わりやすい擬似仲間」だらけ。だから永久に右往左往します。

Ⅱ(コントロールすることの愚)

・「建前と本音」というときの本音とは、「守るべきだとされている法をあえて破っても、これくらいは大丈夫だろう」という共通感覚のこと。

・「どこまで法を破っていいか」つまり「許される法外はどこまでか」。「どこまでが共通感覚の内か」とも言いかえられます。これは経験から学ぶしかありません。「親が殺してもいい」と言ったから殺すなら、子どもはクズです。親ごときの言葉を真に受けているからです。子どもだって自分の経験をベースにしなければダメ。

・こうした経験から体感的にわかったことがあります。決まりのなかだけで「いい子」として生きる者には、本当の仲間が永久につくれないことです。

・実際、政治や性愛(や教育)の世界でも「コストパフォーマンスが第一」「リスク回避が大切」などと「ビジネスマインド」を持ち込む頓馬が、溢れています。政治や性愛(やそれについて教える教育)では、「損得」より「愛と正しさ」が大切です。なのに、そこも損得原理で塗り込めようとするのです。

・どんな頓馬が改革を主導したのかを想像できます。この頓馬が親ならば、知識よりも動機づけが大切であるのを知らず、子どもを夏期講習漬けにしたはずです。虫とか苦手だし、生態も知らないから、「体験デザイナー」なんて無理、というあなた。虫が得意で、生態に詳しい、僕みたいな別の親に子どもを託しましょう。

・感情は、体験によって深まります。ここで言う感情とは、色や形や音やリズムに愉しみを見出す心の働きです。体験が、感情を陶冶し、世界の奥行きを決めます。

Ⅲ(ウンコのおじさんの心得とルール)

・社会じゃなく<社会>。その感覚がないまま大人になるのは、頓馬な親のせいです。子どもをコントロールし、カオスを全面回避し、法内に留め置きたがる、ダメな親。

・こうしたヘタレが増えた背景に、性教育があります。「妊娠の恐怖」「性感染症の恐怖」「受験期の将来選択を台無しにする恐怖」を植えつける不安教育です。不安教育が背景となって、中学や高校では恋愛にハマるとスクールカーストを3段落ちします。だから仲間内では性愛に距離をとることが合理的な戦略になります。

エピローグ(「ウンコのおじさん」であるために)

・本当は「体験教育」を回せる教員の割合が小さすぎたことが、大きい。教員や公務員がある時期から「安定を望む大学生」の志望先へと変わってきたことも、見誤った。

・デューイの教育論より遙かに古く、2500年前の初期ギリシャ以来、教育とは、理不尽や不条理にも拘わらず前に進む「動機づけ」と、それを支える「畏怖する力」を育むものだとされてきた。

・いまの社会は「正しさ(真理や正義)」への動機づけが枯渇し、専ら「損得」のために知識が使われる。失敗はそこだ。「もっと効率的に専門的な知識を」という要求はあまりに愚昧で、気を失いそうになる。

・そうした「動機づけ」は知識の伝達では調達できない。「体験による学び」で成長する他ないのだ。

コメント

この本のなかで「神経症は不安の埋め合わせ」と出てきて、家の鍵を閉めたか気になって何度も確認してしまうことが出てくるが、まさしく自分のことである。

本書にある通りそれはただ鍵を閉めていないという不安でなく、それは自分の場合は経済的な困窮や、仕事での失敗、失業など、想像される将来的な不安が本当の原因となっているという指摘は、読んでいて納得するとともに暗澹たる気分になった。

また恥ずかしながら自分としては損得勘定に基づいた行動を取ることはもはや当たり前の感覚になっている。

何かを買うときはコストパフォーマンスを気にするし、経済的に損をしないよう回避行動に出がちだ。

生き馬の目を抜くように生きることが身にしみてしまっているが、社会的にはこの考えがわたしだけではないことは本書でも触れられているし、自分が周りの人と接したり、ネットでのコメント・意見を見ていてもわかる。

当然ながら自分の生活が成り立たせるためにも経済的に合理的な行動は取るべきで、その意味では損得に基づいて動くことは全て否定されるべきではない。

しかしながら、社会との関わり方、人との関わり方、家族との関わり方において損得勘定に基づいてアプローチすることは、本書でも述べられるように回避すべきだろう。経済原理だけではうまくいかない世界があるということに自覚的になるとも言い換えられる。

これは考えてみれば当たり前で、他人が自分に接するときにどうあって欲しいか、また尊敬する・したくなる人はどういった行動原理に基づいているかを考えてみれば、損得勘定が行動原理となっている人物ではないことは確か。

もういい大人になってしまった自分が損得勘定に基づいて行動する劣化した人から脱却することは困難であろうが、自分の子どもにはせめて損得勘定ではなく動機付けに基づいて行動できるように成長してもらいたいところ。

もちろん自分だけを棚上げするわけではなく、自分もできるところから損得勘定の奴隷から自分自身を解放できるように行動し、経験を積まなければならない。

経済的合理的に動くこと、コスパ良く生きることが称賛され、そうでない行動を取る人物を蔑むような状況であるからこそ、逆張りではないが、そういった価値観から抜け出して動機付けに基づいた信頼ベースの関係を構築できる人を目指しながら、子育てや仕事をしていかなければ。

一言学び

「体験による学び」で成長する他ない。

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