読書レビュー:『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』(池上彰/佐藤優)

読書

読みたいと思ったきっかけ

この本はシリーズもので1冊目の『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』、2冊目の『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』を読んでいたので、最後の3冊目である本書も当然のように購入した。

内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに 池上彰
序章 左翼「漂流」のはじまり
第一章 「あさま山荘」以後(1972年〜)
第二章 「労働運動」の時代(1970年代①)
第三章 労働運動の退潮と社会党の凋落(1970年代②)
第四章 「国鉄解体」とソ連崩壊(1979年〜1992年)
終章 ポスト冷戦時代の左翼(1990年代〜2022年)
おわりに   佐藤優

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

第二章

・反合理化闘争は、産業革命期のイギリスで手工業者や家内制手工業の労働者たちが団結して機械の打ちこわしを行ったラッダイト運動のようなものとしてバカにする向きもありますが、資本主義社会においては仕事の効率化が必ずしも労働者のためにならないというのは普遍的な真実です。その意味で日本の反合理化闘争も非常に重要な問題を提起していたのは間違いありません。現代では職場の効率性を高め、職員一人ひとりの生産性を高めることで労働者もその果実を受け取ろう、などということを経営側だけでなく大企業の労働組合までが当たり前のように主張する風潮がありますが、こちらのほうがむしろ異常です。(佐藤)

・しかし私が通っていた社青同の学習会では、実際に自殺した労働者の例を学びながら、仕事の中で自殺に追い込まれるというのはそれ自体が合理化の最大の問題であって、これは疎外の問題なのだ、個人の責任ではないのだと丁寧に、明確に教えていました。その点では二十一世紀に猛威をふるうことになる自己責任論に対する反撃を、先取りするような学習をしていたと思います。(佐藤)

第三章

・左翼用語としての「構造改革」はこれまでにも何度か出てきていますが、ここでもう一度確認しておくと、アントニオ・グラムシをはじめとするイタリア共産党の創設者たちが目指したもので、革命など性急な手段に頼るのではなく、資本主義の構造を少しずつ変えていくことによって社会主義を目指していこうという路線ですね。(池上)

第四章

・そもそもマルクスはものすごく多義的な解釈ができる思想家で、「これがマルクス主義だ」などと言えるような体系立った思想家ではないのに対して、スターリンは非常にわかりやすくて多義的な解釈など許しません。しかしそこにこそスターリニズムの強さがあり、日本の左翼はほとんどがその強さの前に呑み込まれていた。結局はそうだったのだと思います。(佐藤)

・ただソ連が崩壊した時に、スターリン死後も国内で様々な悪政が行われてきたことを知って多くの人たちは幻滅し、それを機にロシア語を学びたがる人が日本では激減してしまいました。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻はこの傾向へのダメ押しになってしまう気がします。本当はこういう時だからこそ、ロシア語を使いこなせる人を養成していかなければいけないはずなんですけどね。これと同じことが尖閣諸島や竹島の領有権問題で中国や韓国との関係が悪化した時にもあり、中国語、韓国語を学ぶ人はこの時期激減しました。でもそれは長い目で見て決していいことじゃありません。(池上)

・戦前の共産党指導者であった佐野学と鍋山貞親は1933年に「共同被告同志に告ぐる書」という転向声明を獄中から出し、コミンテルンを否定して天皇制下での「一国社会主義」を実現すべきだと唱えたことがありますが、戦後の共産党もそれと同じで、結局は日本という特殊なモデルのなかで生き残った。だからその意味においては、日本が特殊な国であると考えた講座派の思想は今なお生きているんです。(佐藤)

・でも、現代において27万人もの人が結束して自発的に集まり、資金も出し合って活動している結社というと、創価学会をのぞけば他にないですからね。革マル派や中核派、あるいはオウム真理教のような結社はどんなに頑張っても数千人どまりで、自衛隊だって23万人しかいません。自衛隊を超えて、警察や一般職の国家公務員と同じくらいの人数が共産党員だけでいるわけですから、この組織力はやはり破格ですよ。(佐藤)

終章

・日本ではリベラルになんとなくポジティブなイメージがありますしね。しかしこれがアメリカだと、「リベラル」という言葉には共産主義者とほぼ同義語のようなニュアンスがあり、少なくとも共和党支持者は罵倒語として使っていますよね。日本語で「あいつはアカだ」と言うのと同じような意味で敵対者を「リベラル」と呼んでいる。(池上)

・でも彼ら(=メディア)の場合、皮膚感覚がやはりエリート層のそれなんですよ。だから世の中の何かに対する異議申し立てをしていても、その人自身の腹の底から湧いて出ている言葉じゃないからとってつけたような批判にしかならない。「とりあえずこういうふうに言っておけばいいだろう」という異議申し立てにとどまっているんです。だから今のメディアが発する言説は大半がポジショントークです。同じことは官僚や国会議員についてもいえますけどね。(佐藤)

・私があの運動(=SEALDs)を見ていてとりわけ嫌だったのは、たくさんの大人たちが子どもたちに阿ったことですよ。そういった運動における嫌らしさや狡さのようなものについて、大人たちは噛み砕いて教えなければいけなかったのにしなかった。だから私はああいう運動に対しては冷たいんです。結局、思想がないんですよ。左とか右とかは関係なくすべて新自由主義なんです。誰もが眼の前で繰り広げられている椅子取りゲームに勝つことしか興味がなくて、その場その場をどう振る舞えば自分にとって得になるかと考えている。そうした新自由主義的な振る舞いが学生運動にまで浸透しているということだと思います。(佐藤)

・だから私は、実はヴィーガニズムという思想・運動について部分的には共感できると感じつつ、一方ではこの思想が引き起こす社会との軋轢が、かつての新左翼に近いものになる可能性も十分あると思っているんです。これは環境問題でもそうですよね。いずれにせよ、どのような運動をしていくのでも対話の力というのは本当に重要で、対立的な運動であれ、何らかのコンセンサスを見つけることを目指すのであれ、我々はそれを信じていかなければいけません。(佐藤)

・ここで日本共産党が、「我々はいかなる戦争であろうと反対する。今回の戦争はアメリカ帝国主義の尖兵の役割を果たしているウクライナと、もう一つの帝国主義であるロシアが衝突しているだけであって、両国の民衆、プロレタリアートとは何ら関係ない」と堂々と言えていれば左翼政党として生き残るチャンスはあったでしょう。しかしそうしなかったことで彼らはもう反戦政党ではなくなった。そしてこれは、共産党が狙っていた、「共産党の社会党化」という路線が不可能になったことも意味しています。(佐藤)

・だから私は斎藤幸平さんあたりがそういう問題に取り組んでいることを非常に期待しているのですけど、一方で非常に気がかりなのは、それこそ斎藤さんが、二十一世紀の左翼が対決すべき最大のテーマとして設定していた環境問題が、目下ヨーロッパにおいて急速に後退してしまっていることです。(佐藤)

・そうです。だから左翼にとって価値判断の基準は「国家」でも「民族」でも「国民」でもない。基準は常に「階級」であり、戦争であろうと環境問題であろうと、「労働者階級にとってそれは何を意味するのか」という問題設定からすべては始まります。しかしそういう問題設定が、今の日本社会からは失われてしまっている。だからその意味においては、左翼思想を成り立たせる土台自体が崩壊している。そのことが今回のウクライナ戦争で奇しくも可視化されたのだと思います。(佐藤)

コメント

3部作となっていた本書のシリーズもこれで最終巻。

今回に関していえば段々と現代になってきて知っている人の話も増えてきたこともあり、幾分か読みやすく感じた。

特に終章は現在から未来に向けての左翼の課題などを扱っていることもあり、前提知識がそこまで要求されないので、読む側の負担も少し軽く感じた。

左翼関連の歴史を追うには主要組織の名称と特徴を紐づけて頭に叩き込んでおくことが必要不可欠に思う。

それぞれの組織名称が似通っていたり、そもそも名前がメチャメチャ長かったりと本の字面を追うだけで覚えるのは至難の業だ。

その意味でいうと、やはり同時代を経験していて、組織名称を知っていたり、その特徴を掴んでいる年長者の方のほうが読みやすいのは間違いない。

自分としては左翼全般の知識をざっくりと把握することはできたが、個々の事例や組織の関係性をそらで言うことはできないレベルといったところ。

もう一度3冊を知識を整理しながら読んでいけば、もう少し理解度が深まるように思う。

こういう本を読むと、まだまだ勉強・知識が圧倒的に不足していると愕然とするが、少しずつキャッチアップしていくしかない。

一言学び

左翼にとって価値判断の基準は「国家」でも「民族」でも「国民」でもない。基準は常に「階級」。


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