読みたいと思ったきっかけ
佐藤優氏の著書買い。恥ずかしながら本村凌二氏については毎日新聞の書評欄を担当されているということだけ知っている状態だった。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
まえがき | : | 本村凌二 |
第一部 | : | 蘇った宗教戦争ーーロシア・ウクライナ戦争の背後から |
第二部 | : | 宗教と帝国ーー領土拡大とご利益の時代 |
第三部 | : | ”一神教なるもの”の危うさーーその排他性と残虐性 |
第四部 | : | 西洋近代主義と日本ーー宗教が世俗化していく中で |
あとがき | : | 佐藤優 |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
まえがき(本村凌二)
※特になし
第一部(蘇った宗教戦争ーーロシア・ウクライナ戦争の背後から)
■マインドコントロールを禁止するとなると、宗教を互いに認めることは不可能になってしまう。(本村)それを議論すること自体が危険すぎますよ。そういう危うさに対して鈍感になってしまうのが、啓蒙思想というマインドコントロールの怖いところです。(佐藤)
■私の見立てでは、すでに時代はハラリからエマニュエル・トッドに移っているんです。トッドの『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』には、ハラリに関する言及も引用も一切ありません。それ自体が、ハラリに対する彼の端的な評価だと思います。おそらくトッドの認識では、ハラリなど視界に入れる水準にも達していないエセ学者ということなのでしょう。(佐藤)
■そこで土地や人口といった要素を超えて戦争の要因になるのが、やはり「価値観」の対立だと思います。そして、その価値観の背景には多くの場合、宗教がある。人々を死地に向かわせる戦争には「大義」が必要になりますが、宗教的な大義を掲げた「聖戦」はとりわけ乱暴なものになりがちです。(佐藤)
■ギリシャの「デルフォイの神託」は「汝自身を知れ」という言葉で有名ですが、もうひとつ、私の好きな言葉があります。ギリシャ語では「メーデン・アガン」、「物事は中庸をわきまえろ」という神託です。過激なことをやるとさらなる過激さを生むだけだから「ほどほどにしろ」ということですね。(本村)
■信教の自由や思想信条の自由とは、内心について告白することを強要されないというのが原則ですからね。内心で何を考えているかについては、言わなくていい。その意味を理解していない人が多すぎます。(佐藤)
第二部(宗教と帝国ーー領土拡大とご利益の時代)
■でも本来、仏教は世界宗教になりにくいんですよ。というのも、世界宗教になるにはテキストとしての「正典(キャノン)」の存在が大きなポイントだからなんですね。しかも読了可能な分量のテキストでなければ、広まりません。その意味で、仏典は多すぎます。しかし日蓮系の宗派は法華経一本に絞り込めますよね。だから世界宗教的な発展の可能性があるんです。キリスト教やイスラム教は、ふつうの人でも暗唱可能な分量のテキストを持っていることが、大きな特徴と言えると思います。(佐藤)
■プロテスタントは聖書主義なので、毎週、聖書に基づいた説教をしないといけません。だから、どんな牧師だって一生のあいだに20回ぐらいは聖書を読むわけですよ。どんな人だって、同じ本を20回通読したら内容を覚えるでしょう。(佐藤)
■そのゴーガルテンが、初期の作品の中でこんなことを語っています。神格とは決断ではない、人間の決断なんて弱いもので、グラグラと揺らいでしまう。しかし、ある人間の生き方から感化を受けると、それはもう変わらない―。これはじつに鋭い洞察です。(佐藤)
第三部(”一神教なるもの”の危うさーーその排他性と残虐性)
■たしかに「書く」と「聞く」には何か関係があるのかもしれません。同じ話を聞く場合でも、メモや録音などを禁じられているときのほうが、記憶としては鮮明に残りますからね。(佐藤)
■そもそも「八百万の神」の大日本帝国だって、八百万の頂点にいる天照大神を祖先神とした現人神の天皇のもとでかなり乱暴だったわけですよ。それを脇に置いて日本人が日本人が「多神教は寛容だ」などと言うのは、議論のレベルが低すぎます。(佐藤)
■ですから、戦争を宗教と結びつけて読み解くというアプローチ自体が妥当なのかどうかも、よく考えないといけません。たしかに宗教が戦争や暴力を加速させることはあるでしょうが、それは皮相的な話にすぎないかもしれないわけです。(佐藤)
■単純に「一神教は非寛容」なのではなく、宗教であれ思想であれ、「一神教的な状態」になったときに非寛容になりやすいということですね。(本村)そう考えないと、日本の戦争もオウム真理教のテロも説明できないでしょうね。オウム真理教も仏教から生まれているけれど、麻原彰晃への帰依を求める「一神教的」なものがありました。(佐藤)
第四部(西洋近代主義と日本ーー宗教が世俗化していく中で)
■これが、いまのヨーロッパです。よく「日本人は宗教観が薄い」などと言いますが、ヨーロッパでも大差ありません。「彼らはキリスト教国の国民だから」などと考えずに、日本と同じ感覚で見ていたほうがいいと思います。(佐藤)
■ただし、これは学生に教えるときにも強調するんですが、与えることができるようになるには、誰かに何かもらわないといけないんですよ。でも、「いまは受けるときだから」と言って、自分から人におねだりするのはよろしくない。人が与えてくれるものは何でも受けなさい、というんです。(佐藤)
■人間は、自分より強い者にお願いしていると、そこからどんどん卑屈になっていくんです。とはいえ、意地を張って与えられるものを断っていたら生きていけない。だから、与えられるものは受ければいい。受けるより与えることが幸いなのだから―という考え方をもてるかどうかが大事なんです。(佐藤)
■そういう勇ましい人は、危険に対するセンサーシステムが人より敏感なんだと思います。だから、誰よりも早く逃げる。センサーが鈍感な人間はあまり勇ましいことを言わないんだけど、いざとなったときに腰が重いから逃げ遅れるんです。ですから、勇ましいやつは信用しないほうがいいですね。(佐藤)
あとがき(佐藤優)
※特になし
コメント
本書のタイトル通り、宗教にまつわる話と、それに伴って発生し得る諸問題が対談ベースで語られている。
本村凌二氏の専門が古代ローマ史ということで、古代ローマやギリシャの話などに触れながら、宗教と信仰の歴史的な経緯や流れを見ていくことができる。
「単純に『一神教は非寛容』なのではなく、宗教であれ思想であれ、『一神教的な状態』になったときに非寛容になりやすいということ」といった指摘や、「よく『日本人は宗教観が薄い』などと言いますが、ヨーロッパでも大差」ないという話を認識しておくことは大切に思えた。
特に、いまのヨーロッパがまったく「キリスト教世界」ではないという話(正教が強い東ヨーロッパは別だが)は、割と勘違いしてしまいがちなので重要な情報。
ヨーロッパのカトリック圏やプロテスタント圏が日本と同程度に世俗化しているという認識のうえに、日々のニュースを見ていく必要がありそう。
個人的には、逆張りではないが、これだけ世俗化してきている状況においてこそ宗教に対する知識や歴史を継続的に学んでおくことが肝要であるとも思えた。これもかなり打算的ではあるが・・・。
一言学び
よく「日本人は宗教観が薄い」などと言いますが、ヨーロッパでも大差ない。
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