読みたいと思ったきっかけ
橘玲氏の著作は直近では『シンプルで合理的な人生設計』『バカと無知』『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』を読んだ。
基本的には新作は買うようにしており、本書も例に漏れず購入した。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
はじめに | : | リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない |
PART1 | : | 小山田圭吾炎上事件 |
PART2 | : | ポリコレと言葉づかい |
PART3 | : | 会田誠キャンセル騒動 |
PART4 | : | 評判格差社会のステイタスゲーム |
PART5 | : | 社会正義の奇妙な理論 |
PART6 | : | 「大衆の狂気」を生き延びる |
あとがき | : | ユーディストピアにようこそ |
内容
PART1:小山田圭吾炎上事件
■小山田のキャンセルに大きな影響を与えた匿名ブログの記述は、『クイック・ジャパン』のインタビューの中立な引用・紹介ではなく、小山田が一方的な「いじめ加害者」であるかのように意図的に編集されていた。ーーこのことを最初に指摘したのは当時の『クイック・ジャパン』編集者で現在は出版社代表の北尾修一で、片岡大右も『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』で同様の指摘をしている。
■キャンセルカルチャーの特徴は、キャンセルされるような地位についた者が攻撃の対象になる一方で、同じことをしていても、キャンセルできる地位になければ無視されることだ。
PART2:ポリコレと言葉づかい
■ポリコレとは、わたしたちが試行錯誤しながらつくりあげている、グローバル空間のルール・規範のことだ。ところが、誰かがルールを設定すれば、それは別の誰かの「俺たちのルール」を踏みにじったり、既得権を侵すことになる。このようにして、「正しさ」をめぐる政治闘争があちこちで勃発することになった。
■しかし、この大きなちがいにもかかわらず、日本とアメリカの呼称の変化には共通するものがある。それは、「全員を平等に扱う」ことだ。誰かを呼び捨てにして、別の誰かに「さん」や「ミスター」をつけることは、現在の価値観では不適切だと見なされるようになった。
■現代の言語学では、わたしたちは言葉づかいを微妙に変えることで、つねに相手との距離を調整しているとする。敬語や敬称には、相手との距離を遠くする効果(遠隔化効果)があり、これが「近づきがたい」という印象を生じさせる。相手の地位が高い(自分の地位が低い)ほど、より強い遠隔化効果をもつ言葉を使わなければならない。
■ここから、「させていただく」は本来、相手の許可が前提になっていることがわかる。正しい使い方か誤用かは、疑問形にできるかどうかで簡単に判別できる。
■なぜこんなことになるかというと、多用しているうちに言葉がコモディティ化(平凡化)し、敬意が感じられなくなるからだ。手当たり次第に「貴様」を使っていたら、地位が高いのは誰で、そうでないのは誰なのかわからなくなってしまう。こうして、敬意がどんどんすり減ってしまうのだ。
■日本語では、「上か下か」だけでなく、「内か外か」が決まらないと、どのような言葉づかいをするかを正しく選択できない。しかしこれでは、いつも「目上」か「目下」かを気にしつつ、誰を内側にし、誰を外側に置くのかを考えなければならない。
■日本語の複雑な敬語システムは、島国のドメスティックな人間関係に最適化されている。逆にいえば、日本語ではリベラル化が進むグローバル空間の人間関係にうまく適応することができない。
■人種問題、ジェンダー問題、障害者問題、あるいは(被差別)部落問題、在日(朝鮮・韓国人)問題にしても、差別問題にはつねに言葉をめぐる争いがついてまわる。これは人間が言葉を操る動物で、誰を受け入れ、誰を排除するかを言葉によって示しているからだ。その意味で、言葉は「権力」そのものなのだ。
PART3:会田誠キャンセル騒動
■これはリベラルからの抗議が「表現の自由」に一定の配慮をしなければならないからだろう。作家を相手に議論すれば、当然、「この表現には芸術としての必然性がある」と主張されるだろう。そうなると抗議者は、表現の自由を抑圧する側になってしまう。プラットフォーム(美術館)への抗議は、こうした事態を避ける戦略的なものだ。
■近代絵画や現代美術が西欧に出自をもつ以上、日本の美術家は、西欧人の物真似を上手にするか、「日本」の独自性を強調するしかない。しかしその「日本」なるものは、しょせん西欧から見たエキゾチックな東洋の文化でしかない。これはパレスチナ出身の文学研究者エドワード・サイードが「オリエンタリズム」として提起した問題で、美術の世界でも、西欧が理解できる「日本」以外は存在する場所がないのだ。オリエンタリズムの下では、(近代)日本画は洋画以上に、西洋中心主義に従属するしかない。これが<日本画解体><日本画維新>が要請される理由だ。
■作品を取り巻く「文脈」は、時代とともに変わっていく。すくなくとも現代のポリコレのコードでは、美少女の「四肢切断」をエロティシズムとして提示し、美術館に展示することは受け入れられないだろう。こうして、「許される芸術」と「許されない芸術」はどこで線引きするのか、という問題が浮上する。
■ネット上で活発な抗議活動(炎上)に力を得た一部の右派・保守派のグループは、大村愛知県知事へのキャンセル(リコール)に突き進んだが、署名が思いどおり集まらなかったため、アルバイトを雇って大量に署名を偽造するという違法行為に手を染めるに至った。これは右派・保守派にとって手痛いスキャンダルで、政治イデオロギーの対立はネット上では盛り上がっているように見えるが、「ふつうのひとたち」はほとんど関心をもっていないことを示す象徴的な事例になった。
■社会(共同体)が成り立つためには、なんらかの「良識」が必要だ。リベラルな社会では、利害の異なる個人や集団が、それぞれに自分たちの「良識」を主張することができるし、彼ら/彼女たちの「多様な正義」は原理的に対等だと考えるほかない。
PART4:評判格差社会のステイタスゲーム
■60に及ぶ前近代社会を対象にした調査で、普遍的と思われる7つの美徳が明らかになった。①家族を助けること、②自分の属する集団を助けること、③恩を返すこと、④勇敢であること、⑤目上の者に従うこと、⑥資源を公平に分けること、⑦他人の財産を尊重すること
■ところが美徳ゲームにはもうひとつ、もっと簡単で効果的な戦略がある。不道徳な者を探し出し、「正義」を振りかざして叩くことで、自分の道徳的地位を相対的に引き上げ、美徳を誇示する戦略だ。近年の脳科学が発見した不都合な真実のひとつは、不道徳な者を罰すると報酬系が刺激されて快感を得るように脳がプログラムされていることだ。
■そのように考えれば、個人の努力によってステイタスを上げる「成功ゲーム」「支配ゲーム」「美徳ゲーム」のほかに、もうひとつ重要な戦略があることがわかる。帰属する集団のステイタスが上がれば、それにともなって、自分のステイタスが(心理的に)上がり、自己肯定感が高まるのだ。ーーこのことは、2023年WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での侍ジャパンの活躍によって、多くのひとが実感しただろう。
■自分が正しいと信じていたことがじつは間違っていたときに生じるのが「認知的不協和」で、こうした場面に遭遇すると、わたしたちは無意識のうちに話のつじつまを合わせようとする。この衝動はきわめて強いため、進化心理学者のロバート・トリヴァースは、「知能の進化的な役割は自己正当化である」と述べた。
■世界価値観調査では、日本はスウェーデンと並んで世界でもっとも「世俗的価値」の高い社会だとされている。わたしたちは、冠婚葬祭で複数の宗教を適当に使い分け、生まれ故郷をさっさと捨てて都市に集まり、伝統は歌舞伎や相撲など娯楽として楽しむだけの究極の「世俗社会」に生きている。ーー日本人が北欧と異なるのは「自己表現価値」が低いことで、これが他者を気にする同調圧力(ムラ社会)を生む。
■これまでステイタスは、豪邸や高級車、ブランドものの服や時計などのモノによって間接的に示されてきた。だがSNSは、評判そのものを数値によって可視化するというとてつもないイノベーションを実現した。
PART5:社会正義の奇妙な理論
■「ピープル・オブ・カラー」の一人(黄色人種)である私からすると、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧して「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人(白人至上主義者)」を悪魔に仕立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認、あるいは正当化しているのだ……。
■日本ではこれまで、「社会正義」はリベラルな団体・知識人が担ってきた。そのため<理論>もリベラルな主張だと思われているが、いまやアメリカでは、「レフト」が社会正義を掲げてリベラルと敵対している。この構図がわからないと、欧米(英語圏)で頻発する思想的・政治的な紛争を理解することはできない。
PART6:「大衆の狂気」を生き延びる
■マレーは「ゲイ」「女性」「人種」「トランスジェンダー」を現代社会の主要な”地雷原”としているが、炎上しやすいテーマや領域をこう呼ぶことは、欧米でも日本でもしばしば見受けられる。読者(ふつうのひとたち)に向けたその含意は明らかだ。地雷原に近づくな。これが、キャンセルカルチャーへのもっとも現実的な対処法になる。そして多くの場合、評判を守り、社会的な地位を失わないための(ほぼ)唯一の方法でもある。
■男らしさ、女らしさは0と1のような二項対立ではなく、連続体として重なり合っている。性差というのは、定義上、「平均的な男」と「平均的な女」の統計的な差異のことだ。
■それに対して、家族や友人との狭い世界(親密な空間)であれば、どんな発言をしようと責められることはなく、リラックスした時間を楽しむことができる。キャンセルカルチャーが広がれば、多くのひとは他者とのコミュニケーションを避け、社会から撤退していくのではないだろうか。これは一般に保守的な態度とされるが、人種や宗教、政治イデオロギーのような面倒な話題を避けるのはリベラルも同じだ。
■日本では慰安婦問題などで、「原罪の価値観を過去に当てはめるな」との主張がなされることがある。だが、もしこれが正しいとするなら、大航海時代の奴隷貿易やアメリカの奴隷制も、その当時は「合法」だったのだから(すくなくともそれを明示的に禁じる法はなかった)、欧米諸国はこうした過去の行為になんお責任も負う必要がないことになる。さらにいえばホロコーストも、ドイツ軍の占領地域はドイツ国内法の管轄外で、一種の治外法権だったのだから「違法性はなかった」とすることも可能だろう。
■慰安婦問題に対して日本の右派・保守派が決定的に間違っていたのは、それが国際社会で「女性の人権問題」ととらえられていることを理解できず、韓国とのあいだの「歴史戦」だとして、文献的な事実によって犠牲者(慰安婦)の証言を否定しようとしたことだ。日本政府は右派のこの論理に引きずられて対応を誤り、その結果、アメリカや欧州議会、国連(自由権規約委員会)などで日本の謝罪と補償を求める決議が繰り返されるという外交の大失態を招いた(残念なことに、日本政府は現在も、この国際社会のリアリズムを理解しているようには思えない)。
■正義に関する特定のテーマに精通している者(一般に「活動家(アクティビスト)」と呼ばれる)は、その問題にほとんどの時間資源を投入している。そうした活動家が、時間資源のきびしい制約に直面しているひとたちに対して「正しい知識をもて」というのは、「自分たちが真理を独占しているのだから、なにも知らない奴は黙っていろ」というマウンティングを婉曲に言い換えただけだ。
■自分の身を守る方法は、リアルでもバーチャル(ネット)でも同じだ。もっとも重要なのは、こういう「極端な人」に絡まれないこと。そのための最低限の原則は、「個人を批判しない」だ。なぜならこのひとたちは、自分が批判されたと思うと、常軌を逸して攻撃的になるから。自分が「被害者」で、なおかつ「正義」だと信じている相手に対しては、ほぼ打つ手はない。
■「そんなに面倒ならSNSなどやらなければいい」と思うひともいるだろうし、これも一理あるが、SNS時代には個人の価値がフォロワー数で決まるようになる。そうなると、エビデンスを呈示できる専門分野では積極的に発言してフォロワーを集め、それ以外の領域では炎上リスクのない投稿(ネコの写真など)にとどめるのがいいかもしれない。
あとがき:ユーディストピアにようこそ
■右派コミュニタリアン(ポピュリスト)の権威主義がこれまでさんざん研究されてきたのに対し、エガリタリアンによるキャンセルカルチャーが近年、注目されているのは、それが新しい現象だからだ。日本での用語の混乱からもわかるように、これはもともとリベラルの運動だったが、悪性の細胞のように、いつの間にか異形のものと化してリベラリズムを侵食・攻撃しはじめた。
■これは要するに、「あなたが生きているリベラルな社会は、人類史的には(とりわけあなたが先進国に生まれたのなら)とてつもなく恵まれているのだから、実現不可能な理想を振りかざしていたずらに社会を混乱させるのではなく、いまの自分に満足し、小さな改善を積み重ねていきなさい」という提言だ。
コメント
今回も近年の社会的な問題がどういった世間的な流れのなかで起きたのか、その原因を紐解いていく作業から始まり、それがリベラル化の加速に起因していることが示される。
キャンセルカルチャーという世界的な潮流のなかで、ジャニー喜多川の事件も小山田圭吾の事件も、会田誠の事件も位置づけられ、その根本部分にはステータスゲームのなかで不道徳な者を正義心から制裁することが快楽と捉える人間の脳のプログラミングによるところが大きい。
リベラル化する社会のなかではどんどん差異が細分化され、差異ができるたびに二項対立的な枠組みが形成され、そこに争いが生じる。
本書のなかではトランスジェンダーの話が触れられているが、その細分化も月日が経つごとにより進んでいっている。
当然のことながら細分化自体が悪いわけでなく、新しい枠組みで認知できることでその実情に沿った認識を共有することができる。
ただこうやって色々な分野で細分化がなされて、様々な対立軸が生じていくと、どこに対立があるのかわからない部分も増えてくるように思う。
だからこそ本書で述べられる対処法としては、なるべく地雷原となりそうなものは避ける、極端な人に絡まれないように個人を批判しないが挙げられているのだろう。
確かにいつ誰が何に反応するかわからない状況において、このことを念頭に置くのは重要になりそう。
個人を批判しない、の部分は人格的な攻撃だけでなく、その個人が重要と考えていることの中身に関する批判(それが論理的整合性が取れたものであっても)であったとしても避けるべきということだろう。
個人が好きなように生きることができる、というリベラルな社会は素晴らしいものであるが、一方で様々な価値観がそれぞれ主張することによって諍いも増えていく。
個人レベルとしては上述のとおり、そういったトピックを避け、批判しないことが重要となってくるが、それが社会的なレベルで最適解なのかというと疑問は残るところ。といっても現実的に解決する方法がまったくなさそうであるが・・・。
やはり一個人としては半径5メートルくらいの親しい人とのコミュニケーションを重視して、面倒になりそうなことは避けるという態度で挑むほかなさそう。
一言学び
もっとも重要なのは、こういう「極端な人」に絡まれないこと。そのための最低限の原則は、「個人を批判しない」だ。
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