読みたいと思ったきっかけ
書店で見かけたのがきっかけ。
新書もデフォルトで税込みで1,000円を超える時代になったか・・・。
高校生くらいで新書を買うようになったときは概ね800円台のイメージだったので、だいぶ値段が上がったと感じる。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
はじめに | : | 論理的思考はひとつなのか |
序章 | : | 西洋の思考のパターンーー四つの論理 |
第一章 | : | 論理的思考の文化的側面 |
第二章 | : | 「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範ーー四つの領域と四つの論理 |
第三章 | : | なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか |
終章 | : | 多元的思考ーー価値を選び取り豊かに生きる思考法 |
おわりに |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
はじめに(論理的思考はひとつなのか)
■本書はこれらの問いに、論理的思考が世界共通で不変という考えのもとになった論理学の「形式論理」に対して、論理には文化的側面があることを指摘し、それを価値観に紐づけられた「本質論理」と名づけて、思考の「基本パターン」の側面と「文化的」側面の両面から答えていきたい。
■とはいえ、こうした論理的思考の方法は「無限に」あるわけではなく、いくつかのタイプを「型」として提示することが可能である。本書では「経済」(アメリカ)、「政治」(フランス)、「法技術」(イラン)、「社会」(日本)の4つの領域に固有の論理と思考法を、各領域で書いたり話したりする時の「型(構造)」に注目して提示する。政治、経済、法、社会の領域は、どこの国にも併存しているが、「どの領域の論理を使うのか」によって、その判断(結論)は変わってくる。
序章(西洋の思考のパターンーー四つの論理)
■論理的であるとは、古代ギリシア・ローマから現代まで論理学の形式論理のことを指す。
■論理学の形式論理によって結論の真偽は決定できるにもかかわらず、なぜレトリックという別の学問が必要なのだろうか。アリストテレスは、自ら作り上げた論理学の体系が、日常の思考や議論ではほとんど役に立たないことを認識し、日常で使える論理の体系を作り上げた。
第一章(論理的思考の文化的側面)
■実質合理性は、「何が行為を決断するに値する価値を持つ目的なのか」という目的の判断に関する合理性である。それに対して、形式合理性は、決定済みの目的に対して、最も効率的な手段、あるいは理論上確実な手段を選択する合理性である。言い換えれば、実質合理性は、目的そのものの価値を考えて特定の理念/理想を達成しようとするのに対して、形式合理性は、特定の価値や内容とは無関係に、目的に対する「手段」を計算や法則/規則を適用して技術的/道具的に選択することを指す。
第二章(「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範ーー四つの領域と四つの論理)
■エッセイは、「前提」となる主張が最初にぽんと置かれて、そこから具体的事実を判断する演繹に似た形を取る。しかし論理学における演繹的推論の手続きそのものではないため、日本ではこの配置を「頭括型」ーー最初に主張を置き次に具体例で説明する構成ーーと呼ぶのが一般である。ちなみに、主張=結論を最初に置く頭括型は、4カ国の作文のうちエッセイのみであり、残り3カ国の作文はすべて尾括型ーー主張が最後に置かれるーーの構成である。
■アメリカにおける作文法の改革は、19世紀の終わり頃から大学入試制度の標準化を行う中で進んだことが明らかになっている。人格の表現として華麗なレトリックが競われたラテン語作文から、正しい英語で、事実やデータを積み上げて論証する作文へと、作文の目的が大きく変わったのである。それはまた、ヨーロッパ型のエリート教育からアメリカ型の大衆教育への転換を象徴していた。
■もちろん5パラグラフ・エッセイに対する批判も常にある。複雑な社会問題を5つの箱(パラグラフ)に収めるために、社会問題は単純化され、その結果、機械的な作文が大量生産されることになった。そして目的先行で十分な吟味が行われない意思決定も問題視されている。しかしこうした批判にもかかわらず、その効率性と簡便性ゆえに5パラグラフ・エッセイに代わる有効な型はいまだに現れておらず、現在でもエッセイを初めて習う小学校3年生から高等教育まで学力/能力はこのエッセイによって測られている。
■ディセルタシオンでは、<正-反-合>の各部分の論証には、古今の著名な思想家や作家による作品の厳密な引用のみが根拠になる。過去の遺産として共有された知識は、時の淘汰を経ており、それ自体の正当性について論じる必要はないからである。
■バカロレア試験は論述試験であり、決まった型で書かないと合格できない。毎年50万人を超える高校生にこの高度な論文の訓練と試験を強いるのは、政治領域の思考法を身につけ、フランス市民になる通過儀礼としてバカロレア試験が捉えられているからである。実際にこの様式で考えたり書いたりできないと、中等教育の修了資格も高等教育の学位も、職業や社会的な地位もフランスでは得られない。
■日本の大学入学のための共通試験は、知識の暗記のテストに留まっていると批判され続けてきたが、「国語」の内容を読み取る問題や心情を問う問題は、暗記が全く役に立たないタイプの問題である。求められているのはテクストに忠実な読みを行い論理的に推論できるかどうかだが、論理学の推論の真偽とは異なる基準を持っているのは明らかである。
■こうした問題を解くには、小説を読んだり、映画を見たり、多くの人と関わったりする経験を積み、社会の常識と人間に関する蓄積した知識を、他人の主観を共有する「間主観性」の構築にまで結び付けられる能力が必要とされる。試験勉強に特化した努力や、技術的な学習がほとんど機能しないといわれる日本の国語の特殊性は、共通試験の「国語」で満点を取るのは難しいという批判を生む要因となる一方で、他方では社会領域で必要とされる能力をしっかりと測っていると考えられる。
■感想文を通して養われた思考法の強みは、自己と他者の間に共通の主観を構築し、この「間主観性」を内面化することで、外からの強制がなくとも、それと意識することなくあらゆる場面で間主観を思考と行為の指針とすることができることである。状況(場)の変化に柔軟に対応しながら、間主観的に状況を捉え譲り合う「利他」の精神が道徳の中核をなし、それによって強権的なルールやイデオロギーに頼らず社会秩序が形成・保持される。共感と善意による秩序の保持は社会領域の特質である。
第三章(なぜ作者の思考を非論理的だと感じるのか)
■バカロレア試験の採点にかかる膨大な時間と労力のコストが問題視されながらも、論述の試験形態が保持されるのは、「フランス市民(国民)の育成」という国家と教育のプロジェクトの根幹を成す価値観は、経済的な効率とコストを犠牲にしても、何ものにも代えがたいからである。政治領域においては、手続きを遵守して審議に時間をかけること、あらゆる方面から可能性を吟味して「断定」を避け、慎重に答えを導くことに価値が見出されている。合意された「手続き」に従うことは、民主主義の根幹である。
終章(多元的思考ーー価値を選び取り豊かに生きる思考法)
■繰り返しになるが、相手がどの領域の論理を使って考えているのかを意識すること、それ以前に「自分はどの領域の論理を使って考えているのか」に自覚的になることがとても大切だ。それによって「見えない」文化衝突を回避できる。
おわりに
■論理的思考を使いこなせるようになるためには、断片的なハウツーをいくら集めてもそれが目的に適っているのかの確信が持てない。思考法のあれこれを方向性なく学ぶよりも、むしろ「目的は何か」、その目的のためには「どの思考法」がよいのかを考えること、そのために、4つの専門領域(論理学、レトリック、科学、哲学)の推論の型とその目的、そして価値に紐づけられた4つの思考法(「経済」、「政治」、「法技術」、「社会」)を選択肢として示した。主体的に考えることは、まずは思考し判断する「目的を明確にする」こと、そして目的に応じて「手段を選べること」にある。論理的思考法は目的ではない。あくまで手段である。
コメント
恥ずかしながら自分自身も「論理的な文章=5パラグラフ・エッセイ」と捉えていた。
大学の授業で英語のアカデミック・ライティングを学んだ際に5パラグラフ・エッセイを学び、それをベースにして日本語のレポートなどに対処することが多かった。
「5パラグラフ・エッセイで書かないと論理的とは言えない」くらい極端に考えていた時期もあったと思う。
そういった自分自身の曲解を正すのにも本書は最適に感じた。
「『経済』(アメリカ)、『政治』(フランス)、『法技術』(イラン)、『社会』(日本)の4つの領域に固有の論理と思考法を、各領域で書いたり話したりする時の『型(構造)』に注目して提示」されているわけだが、それぞれどういった思考をもとに「型(構造)」になっているかを把握することができる。
個人的には「論理的」の代名詞と思っていた「頭括型=最初に主張を置き次に具体例で説明する構成」が4つの論理のうちの唯一であり、残り3つの論理では「尾括型=主張が最後に置かれる」となっているのは驚きだった。
「主張が最初に来ないなんて『論理的』ではないな」と思っていた自分が恥ずかしい。(特に昔の自分)
本書に記載されているとおり、「むしろ『目的は何か』、その目的のためには『どの思考法』がよいのかを考えること」が重要であると再認識した。
盲目的に1つの論理だけで対処しようとすることは避けねばならない。
目的を明確化し、手段を選ぶ。仕事を含め、あらゆることに共通に当てはまる金言である。
個人的には、日本の感想文教育が、「間主観性」の構築し、それを指針としていくのに役立っているというのも印象的だった。
個人的にはまったくそんな意図があったとは感じられないし、そもそも何を教育されたかの記憶もないが、だからこそその効果は絶大なのかもしれない。
その人がどういった論理で物事を判断するか。そのベースを知るうえでも有益な書籍であると思う。
一言学び
相手がどの領域の論理を使って考えているのかを意識すること、それ以前に「自分はどの領域の論理を使って考えているのか」に自覚的になることがとても大切だ。それによって「見えない」文化衝突を回避できる。
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