読書レビュー:『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)

読書

読みたいと思ったきっかけ

話題になっていたので購入。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

まえがき 本が読めなかったから、会社をやめました
序章 労働と読書は両立しない?
第一章 労働を煽る自己啓発書の誕生ー明治時代
第二章 「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級ー大正時代
第三章 戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?ー昭和戦前・戦中
第四章 「ビジネスマン」に読まれたベストセラーー1950〜60年代
第五章 司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマンー1970年代
第六章 女たちのカルチャーセンターとミリオンセラーー1980年代
第七章 行動と経済の時代への転換点ー1990年代
第八章 仕事がアイデンティティになる社会ー2000年代
第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか?ー2010年代
最終章 「全身全霊」をやめませんか
あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

まえがき(本が読めなかったから、会社をやめました)

■私にとっては、読書が人生に不可欠な「文化」です。あなたにとってはまた別のものがそれにあたるでしょう。人生に必要不可欠な「文化」は人それぞれ異なります。あなたにとって、労働と両立させたい文化は、何ですか?

序章(労働と読書は両立しない?)

※特になし

第一章(労働を煽る自己啓発書の誕生ー明治時代)

■「自己啓発書の流行」というと現代において最近はじまったもののように感じられる。しかしその源流は明治時代にすでに輸入され、「成功」「修養」といった概念とともに日本の働く青年たちに広まっていたのである。

■序章に挙げた『ファスト教養』は、自己啓発書やビジネス書をエリート層がひややかに見つめる様子について触れている。だがさかのぼれば明治時代、夏目漱石の『門』においても、同じように「成功」と冠する自己啓発的ビジネス雑誌を、エリートにいる宗助は、縁遠いものとして見つめている。

第二章(「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級ー大正時代)

■行為を重視する修養と、知識を重視する教養は違うものになった。こうして「教養」=エリートが身につけるもの、「修養」=ノン・エリートが実践するもの、といった図式が大正時代に生まれていった(筒井清忠『日本型「教養」の運命ー歴史社会学的考察』)。

■そう考えると、令和の現代で「教養」が「労働」と近づいているーつまり「ビジネスパーソンのための教養」なんて言葉が流行しているのは、もはや「教養」を売る相手がそこにしかいないからだろう。

第三章(戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?ー昭和戦前・戦中)

■だとすれば「戦前のサラリーマンはいつ本を読んでいたのか?」という問いに対して、電車のなかや休日に読書していた、という答えはもちろん正しいが、それ以外にも「新聞や雑誌で小説を偶然見かけてそのまま読んでいた」ということも押さえておくべきだろう。

第四章(「ビジネスマン」に読まれたベストセラーー1950~60年代)

■大正時代から戦前、「教養」はエリートのためのものだった。だが戦後、じわじわと労働者階級にも「教養」は広がっていく。それはまさに、労働者階級がエリート階級に近づこうとする、階級上昇の運動そのものだった。

第五章(司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマンー1970年代)

※特になし

第六章(女たちのカルチャーセンターとミリオンセラーー1980年代)

■現代においては「若者の読書離れ」なんて言われても、スマホがあると本を読まないのはしかたないよねうんうん、と頷くほかない。が、実は「若者の読書離れ」という言葉が定着したのはなんと40年も前のことだったのだ。

■が、それにしたっていつの時代も「大学ではない場で学ぼうとする人々」には、蔑みの視線が向けられるものらしい。そしてそれは、重兼の言う「エリートによる優越感からくる攻撃」が、繰り返されている証である。

■だとすれば、読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階級を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業を名づけたものだったのかもしれない。

第七章(行動と経済の時代への転換点ー1990年代)

■自分が頑張っても、波の動きは変えられない。しかし、波にうまく乗れたかどうかで自分は変わる。それこそが90年代以降の<経済の時代>の実感なのだ。

第八章(仕事がアイデンティティになる社会ー2000年代)

■情報の反乱するインターネット空間で、いかに必要のない情報を除去し、ノイズのない情報を伝えるかが重要視されることは、説明の必要もないほど私たちも痛感するところだろう。働いていて、本が読めなくてもインターネットができるのは、自分の今、求めていない情報が出てきづらいからだ。

■つまり読書して得る知識にはノイズー偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを探すからである。コミュニケーション能力を挙げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知るーそれが情報である。情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す。

第九章(読書は人生の「ノイズ」なのか?ー2010年代)

■これが教養でなくて、何だろう。今回の例はきわめて示唆的なエピソードではないだろうか。教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。

■大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

最終章(「全身全霊」をやめませんか)

■マレシックは、自分がバーンアウトした大学教授だったころ、睡眠時間を削ってとにかく時間に追われながら1日中仕事のことを考え、いつも時間に遅れている気がしたという。それはまさに「トータル・ワーク」を内面化した姿だっただろう。そしてその末にバーンアウトは起きる。さらにマレシックはワーキング・マザーを例にとって、1日中、企業の仕事と育児・家事の仕事で埋め尽くされる「トータル・ワーク」が存在することも指摘する。

■全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから、楽だ。達成感も得やすいし、「頑張った」という疲労すら称賛されやすい。頑張りすぎるのは少しかっこいいし、複雑なことを考えなくていいという点で楽だ。

あとがき(働きながら本を読むコツをお伝えします)

※特になし

コメント

三宅香帆氏は一気にブレイクした感じがある。

1994年生まれということで自分よりも若い方が段々と第一線で活躍する姿を見ると、自分が歳を重ねているだけで何もできていないという思いに駆られる・・・。嘆いても仕方ないけど。

読書史と労働史を概観することで、なんで働いていると本が読めなくなるのかという問題の原因を探っていくのが本書のメイントピック。

本書では「情報=知りたいこと」、「知識=ノイズ+知りたいこと」として整理し、そのうえで読書がノイズになっているからこそ、読めなくなっている(読まれなくなっている)とする。

ここでいう読書というのが情報を目的としているビジネス書や自己啓発書などは含まれないので、「ビジネス書や自己啓発書などの情報取得を目的としたものを除く読書」はノイズになるというのが正確なのかもしれない。

今の時代であってもそういったビジネス書や自己啓発書は働きながらでも読んでいる人がいることを考えると、必ずしも「読書」ができていないわけではないだろう。

ゲームや漫画、動画など様々な娯楽コンテンツがあるなかで、小説などの文芸作品の鑑賞に向かう割合が減っているという点も個人的にはあるように感じる。

本書の中で印象に残ったのは「全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから、楽だ」という指摘。

これは全肯定できてしまうほど、最近強く感じる。

仕事一本に全リソースを費やせることが如何に楽か。これを最近身にしみて感じている自分にとっては我が意を得たりだった。

家事や育児などにもリソースを回さないといけない状況では、どの分野にどのリソースを割くか、突発的な自体でリソース配分を変えないといけないといったマネジメント問題が出てくる。

これがないだけでどれだけ楽になるか・・・。無い物ねだりではあるが、自分もついつい考えてしまう。

本書はメイントピックが労働史と読書史であるが、この後半語られる「全身全霊をやめよう」という一見読書と関係なさそうな章が一番印象的である。

一言学び

全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから、楽だ。


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