読書レビュー:『独ソ戦』(大木毅)

読書

読みたいと思ったきっかけ

佐藤優氏の著作のなかで推薦されていたのがきっかけ。

この本が出版された2019年のときから書店で見かけて気にはなっていた。

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独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書) [ 大木 毅 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2022/10/23時点)


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに 現代の野蛮
第一章 偽りの握手から激突へ
第二章 敗北に向かう勝利
第三章 絶滅戦争
第四章 潮流の逆転
第五章 理性なき絶対戦争
終章 「絶滅戦争」の長い影
おわりに    

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

はじめに(現代の野蛮)

・こうした悲惨をもたらしたものは何であったか。まず、総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種(ウンターメンシュ)」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争(ヴェルトアンシャウウングスクリーク)」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした。

・本書は、こうした状況に鑑み、現在のところ、独ソ戦に関して、史実として確定していることは何か、定説とされている解釈はどのようなものか、どこに議論の余地があるのかを伝える、いわば独ソ戦研究の現状報告行うことを目的とする。日本においては、何よりもまず、理解の促進と研究の深化のためのスタートラインに立つことが必要かつ不可欠であると考えるからだ。

第一章(偽りの握手から激突へ)

・しかし、ここまでみてきたように、「バルバロッサ」作戦は、はたしてヨーロッパ・ロシアの占領スターリン体制の瓦解につながるのか、一度、あるいは複数の会戦でソ連軍主力を撃滅できるのか、長大な距離にわたる機動を維持するための兵站体制を構築できるかといった、さまざまな問題を真剣に検討しないままに立案された、純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画にすぎなかった。ドイツの将軍や参謀は、プロフェッショナルとしてなすべき、醒めた敵情判断さえも怠っていたのだ。

第二章(敗北に向かう勝利)

・独ソ戦初期において、ソ連軍は、このセンノの戦いに象徴されるように、攻撃偏重のドクトリンを固守し、指揮官の能力、兵站、整備、通信といったさまざまな欠陥を無視した反撃を行い、自壊ともいうべき大損害を出した。

・この浸透戦術は、近代以降、巨大化し、迅速充分な通信・補給能力を不可欠とするようになった軍隊の弱点を衝く戦法であった。たとえるなら、いかなる巨人であろうとも、神経や血管を断たれれば、存分に腕力を振るうことはあたわぬ。軍隊も同様で、通信線や補給線を切られたなら、兵力としては存在していても、戦力として有機的に機能することは不可能となる。

・こうした経緯から、ストーエルは、1941年8月の時点で、ドイツはもう対ソ戦の敗北を運命づけられていたと主張する。ドイツに唯一勝機があるとすれば、装甲部隊による機動戦で数に優るソ連軍を撃滅し、赤い巨人の国力が発揮される前に、ヨーロッパ・ロシアの主要な工業資源地帯を占領することにあったのだが、ドイツ国防軍の実力からして、それは不可能なことだった。

・ここから、どうするべきなのか。ヒトラーとドイツ軍首脳部は困難な決断を強いられた。短期決戦で勝利が得られると楽観しきっていたことへのつけがまわってきたのだ。開戦前に、ここを衝けば、あるいは、どういう状態に持っていけば、ソ連という巨人がくずれおれることになるのか、彼らが眞面目な考察を加えることはなかった。作戦次元、すなわち、戦場での成功を積み重ねていけば勝利が得られると信じ込むばかりで、銃後も含めた彼我のリソースを冷静に測り、戦略次元での優劣を計算に入れた戦争計画が立案されることはなかったのである。だが、独ソ開戦以後の現実は、そうした判断の必要性を突きつけてきた。

・ここにおいて、大きな見解の相違が生じていることは注目すべきだろう。南部ロシアの工業・資源地帯、さらにはコーカサスの油田といった経済的目標を重視するヒトラーと、政治的・戦略的な目標である首都モスクワの奪取こそが勝敗を決すると信ずる陸軍の対立だ。これは、「バルバロッサ」作戦後半の展開に関して、重要な背景となっていく。

・近代用兵思想に大きな影響をおよぼした『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼヴィッツは、敵のあらゆる力と活動の中心が「重心(シュヴェーアプンクト)」であるとし、全力を以て、これを叩かなければならないと論じた。敵の軍隊が重心であれば軍隊を撃滅し、党派的に分裂している国家にあっては首都を占領し、同盟国に頼っている弱小国の場合は、その同盟国が派遣する軍隊を攻撃するべしというのが、クラウゼヴィッツの主張であった。

第三章(絶滅戦争)

・さらに、ヒトラーの掲げる人種主義は、ドイツ社会の分裂を、ひとまず糊塗する作用をおよぼしていた。都市と農村、ホワイトカラーと労働者、雇用主と被雇用者等、利害の対立は現実に存在していた。しかし、健康なドイツ国民で、ゲルマン民族の一員であれば、ユダヤ人をはじめとする「劣等人種」、社会主義者や精神病者といった「反社会的分子」に優越しており、ゆえに存在意義を持つという仮構は、そうした溝を覆い隠していく。

・外交ではなく、内政において「危機」が生じたのである。通常、こうした場合に取られる対応は、軍需経済への集中を緩和し、貿易の拡大をはかるか、逆に、より厳しい統制や国民の勤労動員強化でしのぐかのいずれかであろう。ところが、「大砲かバターか」ではなく、「大砲もバターも」の制作を選んだナチス・ドイツ政府には、どちらの措置も不可能だった。

・そこで、対ソ戦決意を知らされたバッケが立案したのは、占領したソ連から食料を収奪し、住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、なかんずく国防軍の将兵に充分な食料を与えるとする、「飢餓計画」と通称される構想だった。

・ドイツのソ連占領において特徴的なのは、一元的に責任を持つ管轄省庁がないことであった。「権限のカオス」と呼ばれる、ナチズム特有の現象が、ここでも現れたのである。これは、ヒトラーがしばしば決断を回避した結果、麾下の書記官が同じ争点をめぐって、自らの政策を貫徹すべく、激しい権限争いを行ったことを意味している。

・最終的な決算は恐るべき数字を示している。570万名のソ連軍捕虜のうち、300万名が死亡したのだ。実に、53%の死亡率だった。この戦争犯罪に関しては、とくにドイツ国防軍の責任が問われている。捕虜に最低限の人道的な待遇を与えることは、軍の義務であり、専管事項でもあったのだが、国防軍指導部は、それを怠ったのである。

・1920年代末より形成され、1930年代に完成されたスターリン独裁は、個人崇拝、秘密警察による統制を前提とした恐怖政治、体制にとって不都合な者の粛清・追放といった特徴を有していた。

・こうして、ソ連国民は動員され、旺盛な戦争遂行意欲をみせた。一例を挙げれば、労働者たちは、「ファシストの侵略者」に打ち勝つために、1週7日間、1日あたり8ないし12時間の勤務態勢をも甘受したのだ。ドイツの研究者クリスティアン・ハルトマンのいう「ソ連の国家性と大ロシア的色づけ、ギジュ的なモダニティと歴史的な神話のきわめて特殊な合金、ソ連愛郷主義」がうまれ、ボリシェヴィキ・イデオロギーの諸要素と混合されたのである。

・1941年6月の開戦から1943年2月までに、17万ないし20万のドイツ軍将兵が捕虜になったが、そのうち、捕虜収容所で生き残ったのは5%にすぎなかったと推計されている。ソ連軍の捕虜に対する待遇は、ドイツ軍ほどではないとしても、同様に、国際法を踏みにじった惨酷なものだったのである。

第四章(潮流の逆転)

・1941年から1942年にかけての冬に、ドイツ軍を潰滅から救ったのは、ソ連軍が実力を顧みない総花的攻勢を強行したからであった。ところが、ヒトラーは、死守命令こそが危機を克服したと思い込み、おのが軍事的才能を信じて疑わぬようになった。以後、彼は軍人たちの反対を押し切り、軍事的合理性にそむくような指令を乱発していく。

・こうした変化をみたヨーロッパ諸国の軍人や軍事思想家は、戦争に勝つための策を定める戦略と、戦闘を有利に進めるわざである戦術のあいだに、もう一つ、「作戦」という次元があると考えはじめた。そこで採られるべき方策を究明することが、今後の戦争遂行に重要な意味を持つと認識したのである。ロシアは20世紀初頭に、こうした理論的試みにおいて、著しい進歩をみせた。日露戦争で、日本軍よりもずっと優勢な大軍を擁しながらも敗北した経験が、ロシアの軍人たちに深刻な思索をうながしたのだ。

・まず、戦争目的を定め、そのために国家のリソースを戦力化するのが「戦略」である。作戦術は、右の目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」、あるいは「戦役(キャンペーン)」(正確な軍事用語としては、一定の時間的・空間的領域で行われる、戦略ないし作戦目的を達成しようとする軍事行動を意味する)を、相互に連関するように配していく。個々の作戦を実行するに際して、生起する戦闘に勝つための方策が「戦術」である。なお、日本では、作戦自体を遂行するわざが作戦術であると誤解されることが多い。しかし、作戦術はむしろ戦略次元の下部、もしくは戦略次元と作戦次元の重なるところに位置するものであることを強調しておきたい。

・「バルバロッサ」や「青号」が示したように、作戦・戦術次元ではソ連軍に優越していたドイツ軍であったが、こうした、戦略に沿ったかたちで作戦を配置するということは、ついにできなかった。ドイツ軍指導部には、作戦次元の勝利を積み重ねていくことで、戦争の勝利につなげるとの発想しかなかったのだ。

・結論から先にいえば、クルスク会戦にはじまる緒戦役の特徴は、作戦術を応用した連続攻勢により、作戦次元から戦略次元の勝利を導こうとしたソ連軍が、単一作戦のレベルでしか思考できなかったドイツ軍をうわまわったことであった。

第五章(理性なき絶対戦争)

・通常の戦争では、軍事的合理性に従い、敵に空間を差し出すことによって、態勢立て直しや反抗準備のための時間をあがなう。しかし、世界観戦争、また、それを維持するための収奪戦争の必要から、ヒトラーには、後退という選択肢を採ることはできなかったのだ。

・こうした収奪戦争の徹底は、前線だけではなかった。スターリングラードの敗北以後、ヒトラー以下のナチス・ドイツ指導部は、軍需生産の拡大を迫られたが、体制の動揺を恐れるがゆえに、なお自国民に多大なる労働を強いようとはしなかった。その代わりに、ソ連軍捕虜、強制連行されたソ連やポーランドの労働者、ユダヤ人、強制収容所の被収容者などを投入し、軍需物資の増産を強行したのである。結果として、1942年には400万人だった外国人労働者が、1944年末には840万を超えたという。

・戦後、ドイツの将軍たちは、ヒトラーの軍事的な無知を批判し、敗北の原因を彼の死守命令に帰したが、彼らの言説はけっして額面通りに受け取れない。なぜなら、それは、対ソ戦を「通常戦争」ととらえる、彼らの認識のちがいから来るものと考えることもできるからだ。

・クラウゼヴィッツは、戦争の本質が、敵に自らの意志を強要することである以上、敵戦闘力を完全撃滅し、無力化する「絶対戦争」を追求するべきだと考えた。けれども、現実には、さまざまな障害や彼のいう「摩擦」、また、政治の必要性などによって、戦争本来の性質が緩和されるために、絶対戦争が実行されることは例外でしかないとみなすようになったとされる。だが、ヒトラーは、まさにその例外を実現しようとしていた。

・しかし、前線のソ連軍将兵の蛮行も、その残虐さにひけを取るものではなかった。先に触れたイデオロギーとナショナリズムの融合と、それによる国民の動員は、否が応でも敵に対する仮借なさを増大させていた。いまや、祖国を解放し、ドイツ本土に踏み入ることになったソ連軍将兵は、敵意と復讐心のままに、軍人ばかりか、民間人に対しても略奪や暴行を繰り広げたのである。

・よって、ソ連軍の行く先々で地獄絵図が展開されることになった。ある青年将校の証言を聞こう。「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた」。「血を流し、意識を失った女たちを一か所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した」。

・ヒトラーは、敗北直前にあってもなお、対ソ戦を、交渉によって解決可能な通常戦争に(それが可能であったか否かは措いて)引き戻す努力をするつもりなどなかった。「世界観戦争」を妥協なく貫徹するというその企図は、まったく動揺していなかったのである。

・換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。それを意識していたか否かは必ずしも明白ではないが、国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。

終章(「絶滅戦争」の長い影)

・かくのごとく、独ソ戦とその結果は、さまざまに利用されてきた。最近では、プーチンのロシアが、民族の栄光を象徴し、現体制の正統性を支える歴史的根拠として、対独戦の勝利を強調しているのは、周知の通りだ。また、かつての西ドイツ、そして、現在のドイツにおいても、非追放民の政治団体「非追放民同盟」は、政治に右バネを効かせつづけている。

コメント

久しぶりに岩波新書を読んだが、中公新書もそうではあるが、やはり他の新書よりも硬めに感じる。もっともこれでも昔よりはだいぶ難易度は易しめになっているらしいが・・・。

ウクライナにて戦争が行われている今だからこそ、より現実感を持って読むことができた感覚はある。

死者数が何百万、何千万単位なのでもはや認知できるレベルの数字ではないが、人口の1割や2割と考えると恐ろしい数字。

「世界観戦争」というイデオロギーも混じった戦争であったがゆえに、ドイツもソ連も互いに暴掠の限りを尽くすことになった一番の要因であり、それらは軍部だけではなくまたどちらの国民にも影響していた。

現在のウクライナ戦争においてもロシア軍による戦場での略奪、暴行などニュースになっているが、同じようなことが本書の中でも書かれており、戦場において人間がそういった行動を取ってしまうのは残念ながら否定できないのかもしれない。

近代になり戦争が総力戦となり、生産・補給を含めてあらゆる活動のために国民を動員し挙国一致で取り組む必要があるようになった結果、国民にプロパガンダしなければいけなくなり、それが結局はこういった国民の敵対感情醸成、復讐心を燃え立たせる原因となった。

そういったナショナリズムを煽るプロパガンダで国民を動員していくやり方は、内政の安定化の観点でいくと使いたくなる手段の一つなのだろう。外に敵を創れば、内政への不満のはけ口になる。

ただ、結局はこうやって敵愾心をむき出しにし、戦争になってしまえば、一番被害を受けるのは他でもない国民である。

メディアの煽りを見ていたりすると、確かに隣国に対して苛立ちを覚えることも多くあるが、そういうときこそ一度立ち止まって冷静にジャッジする必要性を感じる。

無駄に敵意を持ったところで何か自分の周りで良くなることなど一つもないだろう。

と、わたしは戦争に至る過程での国民感情の煽りという点を強く意識してしまったが、本書では当然のこと、独ソ戦における戦略、作戦、戦術の解説や、そのときの政治的な動き、また捕虜の扱いなどの視点からも読み解きがなされている。

独ソ戦は最終的にソ連側の勝利に終わった。当時から75年以上経過し、現在のロシアがその頃のソ連と同じわけでもないし、兵器の質・量、政治的社会的状況も異なるので一概に言えないのは重々承知しているが、やはりロシアは大国であるし、侮ってはいけないという気持ちも本書を読んで改めて感じられた。

地図を参照しながら追っていかないと戦いの状況が把握しづらい点はあるが、そこまで分厚い本でもないし、解説も丁寧なので取っつきやすいはず。

一言学び

国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。

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