読書レビュー:『英語達人列伝II かくも気高き、日本人の英語』(斎藤兆史)

読書

読みたいと思ったきっかけ

斎藤兆史氏の著作は好きで、結構読んでいる。

本書の前作の『英語達人列伝』も読んだことがあったので、気になり購入した。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

 

まえがき    
第Ⅰ章 嘉納治五郎
第Ⅱ章 夏目漱石
第Ⅲ章 南方熊楠
第Ⅳ章 杉本鉞子
第Ⅴ章 勝俣銓吉郎
第Ⅵ章 朱牟田夏雄
第Ⅶ章 國弘正雄
第Ⅷ章 山内久明
あとがき 達人に学ぶ英語の教育と学習

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

第Ⅰ章(嘉納治五郎)

■本人が挙げているお稽古事のなかで特筆すべきは、漢学と英学。まず、前著で紹介した新渡戸、天心、斎藤博、そして嘉納も含めこれから紹介する英語達人の半数ほどが幼少期に漢籍を習っていることは注目に値する。

■語学もこれと同じである。初学のうちは、語彙、発音、文法を覚えながら、ほぼ右肩上がりで上達していく。しかしながら、やがてその伸びが緩やかになってくる。ここが踏ん張りどころだ。…もしかしたら嘉納が柔術修行で得た上達の感覚は、彼の勉学や教育にも活かされていたのではないか。そう仮定することで、のちの彼の膨大な業績が説明できるような気がするのだ。

■だが、基礎も固まらないうちから、間違ってもいいからとにかくコミュニケーションを図りなさいと促す外国語教育には賛同できない。嘉納の場合、すでに相当に高い英語力に達していたからこそ、実地練習が功を奏したが、ここで彼がいみじくも書いているとおり、「語学は誤なきを期すべき」であり、間違えることを前提とし、それを奨励するような教育は避けるべきだ。

■つまり、英語教育によって学習者の異文化理解を促進させることは重要だが、学習者はまず自国をよく知らなくてはならない、という主張である。英語教育は、歴史的に見て、つねに英米崇拝と国粋主義のはざまで揺れ動いてきたが、嘉納は、そのいずれにも偏らぬ立ち位置を見事に確保している。

第Ⅱ章(夏目漱石)

■だが、ずば抜けているほどではない。もっとも、僕が同僚たちと共有する印象からすれば、最近、東大生の英文読解・英作文能力も全体的に落ちてきているから、相対的にはさらに上位にいくことにはなるのだが、そのような趨勢は別にして、数年に一度、こちらが思わずうなってしまうような英語力の持ち主に出くわすことがある。この時点での漱石は、まだその域には達していない。

第Ⅲ章(南方熊楠)

■シェイクスピアの戯曲などというと、とてつもなく古い英語で書かれていると誤解している人が少なくないだろう。だが、英語の進化の区分で言えば、その英語は、我々が習っているものと基本的には同じ文法構造の近代英語である。もちろん、中学や高校で習った英語だけで簡単に読み解ける代物ではないが、正しく英語を勉強してさえいれば、決して読めない英語ではない。

第Ⅳ章(杉本鉞子)

■日本人は、ややもすると会話の流暢さや発音のよし悪しで自分たちの英語力を判断する傾向にある。だが、高度な英語力は、むしろ読解力や作文能力として現れる。その高みを目指して勉強していれば、自然な英文を、ましてや文学的な英文を書く能力を身につけることがいかに難しいかがわかるはずなのだ。そして、鉞子の英文の質がいかに驚異的であるかは、その生い立ちを見ることでさらに際立ってくる。

■僕は拙著『英語達人塾』において、素読の修練によって磨かれた語学感覚が彼らの英語学習を大いに促進した可能性を指摘した。どうやらこれは鉞子についても言えそうだ。

■40年近く大学で英語を教えながらこんなことを言っては身も蓋もないが、適度な添削を施すことで日本人の書いた英語が見違えるほどよくなることはほとんどない。英語のチェックを依頼されて預かった文章は、大きく2つに分かれる。一方は、直す必要がないくらい優れた英文。ただし、これはきわめて少ない。他方は、そのままではどうにもならない英文。なかには意味不明な部分もある。これが圧倒的に多く、とくに昨今の「コミュニケーション」重視の英語教育の影響か、意味不明の部分が増加傾向にある。

第Ⅴ章(勝俣銓吉郎)

■さて、外国語として身につける英語力のなかでもっとも高度なものは何かと問われたら、僕は迷うことなく英作文能力だと答える。40年におよぶ英語教師生活のなかで、帰国子女やバイリンガルも含め、器用に英語を話す日本人にはずいぶん会ったが、英文家として評価できる日本人は数えるばかりだ。

第Ⅶ章(國弘正雄)

■これまでの章で、過去の英語達人たちの例も引きつつ、素読の修練によって磨かれた語学感覚が彼らの英語学習を大いに促進した可能性を指摘したが、これは國弘についても言えそうだ。ここまで成功例があるのだから、漢文とは言わないまでも、英語学習における素読の効用がもう少し見直されてもよさそうな気がする。

■ただし、ここから単純に、子どもの英語学習意欲を高めるにはまず英語が通じる体験をさせるのがよい、という教訓を導き出すべきではない。後年、冠詞1つに至るまで正確であった國弘の英語が、音読と筆写を通じた型の学習と英語運用の実践との絶妙なバランスのうえに作り上げられたことは、あらためて確認しておく必要がある。

■せっかく母語話者がいるのだから英会話の練習をすればいいではないか、と考えるのは語学の素人である。通詞は外交語学のプロ集団。そのようなやり方では高度な英語が身につかないことを知っているのだ。

■ところが、彼は違う。回想録の他の部分でも、R・H・ブライス(1898〜1964。文学者、日本文化研究家)の言葉を紹介している。ブライスは、生前、日本人がおかしなリズムの英文を書くのは英詩を読まないからだと語っていたという。國弘は、ここからさらに英詩を音読することの重要性を説く。彼ほど徹底的に英語を勉強した人間は、実用対教養などという二項対立は軽々と乗り越えてしまうのだ。

■さらにそのうえで、「英語学習者に勧めたい英語学習法」に関し、「あえて1つだけ強調するとすれば、英語を読むことはすべての技能(書くこと、聞くこと、話すこと、やりとりすること)の土台となるので、おろそかにすべきではない」と述べている。

■曹洞宗の坐禅は、悟りを得るための瞑想ではない。ただ姿勢を正し、息を整え、そして心を整えて、ただひたすらに坐る。國弘の只管朗読・只管筆写も同じである。発音をよくするためとか、単語を覚えるためとか、そういう余計な目的を一切考えず、ただひたすら何度も何度も読む、書き写す。英語の上達は、あくまでその結果であって、目的ではない。

第Ⅷ章(山内久明)

■拙著『英語達人塾』でも書いたとおり、英語学習欲の高い日本人のなかには、留学先では日本人と付き合おうとしなかったり、極端な場合には日本人にも英語で話しかけたりする人がいる。そういう人が大成したという話はまず聞いたことがない。だが、山内の取材を進めるうち、例外と言ってもいいかもしれない人物の存在が浮かび上がった。母語と異文化のはざまで自らの位置を模索しつづけた山内が、1つの手本としてつねに意識していた英文学者マサオ・ミヨシ(三好将夫)である。

■僕などはミヨシの強烈な個性にすぐ拒絶反応を示してしまいそうだが、山内は、そこに人生の1つの選択肢を見たような気がした。そして、ケンブリッジ留学1年後に呼び寄せた家族の存在と、日本語専任講師レクトーとしての職務を通して、日本との絆を自覚する一方で、自分にはまだ甘えがある、英語の回路で生きる決意をし、ミヨシのように英語圏にとどまり、英語による英文学研究に挑戦することが果たして自分にできるかどうかーーこのような問いを抱くに至る。山内にとっての英語学習とは、方法論の域をはるかに超えた、人生を賭した挑戦だったのである。

あとがき(達人に学ぶ英語の教育と学習)

■本書を書き上げてあらためて不思議に思うのは、前著の達人たちも含め、これだけの英語の使い手たちの学習法が日本の英語教育史上注目されてこなかったことである。日本語母語話者として、基本的に日本で教育を受けたにもかかわらず、並の英語母語話者をはるかにしのぐ英語力を身につけた人たちがいる。彼らを手本とせず、何を手本にしようというのか。理由はわからないでもない。これほどの英語修行を行うなど、例外的な人たちである。そう認識されているのかもしれない。とはいえ、達人たちはなにか特殊な修行を行ったわけではない。当たり前の学習法を、とてつもない時間をかけ、とてつもない情熱と根気を持って実践しただけである。

■自主的な英語学習についても、多くの拙著で述べてきたとおりである。とくに前著の姉妹編である『英語達人塾』に記したことを実践していただければ、上質な英語力を身につけることができると確信する。基本は単純である。達人たちの学習法を真似すればよい。音読、素読、文法解析、辞書の多用、暗唱、多読、暗記、作文、その他、考えうるかぎり質の高い英語に触れ、それを真似して使う練習をする。それを毎日行う。それだけである。

コメント

前作に引き続き読み物として単純に面白い。

歴史的な時代背景なども説明されつつ、その状況下でどうやって達人たちが英語学習を進めたのかを知ることができる。

そして達人たちがそのなかでどれだけ努力を重ねてきたかが描かれる。

教育問題、特に英語教育に関する問題は誰も彼もが一家言持っているトピックの1つであって、色々な意見が出される。

そのなかでもあくまでコミュニケーションツールとして伝われば良いとする派と、今回の著者のように上質な英語力身に付けることが重要だとする派に大きく分かれているように感じる。

個人的にはどちらも納得する部分があるし、その時々によって考えが変わるが、せっかく英語を勉強してきたのだから、なるべくかっちりした英語を使えるようになりたい。

ただ、こういう考えは英語学習の敷居を高くしているようにも同時に思うところがある。

結局そこまで努力して英語を学習することができるようになるのはほんの一握りの人々に限られる可能性が高いのに、それを全学習者にオススメできるかというと疑問がつくところ。

英語学習に適性もあり、かつ意欲もある人は著者の言うような王道の英語学習に進むのが好ましい。

しかし、そうでない人にとっては、仕事などで仕方なく英語を使わざるを得ない状況下で学習しなければならない場合が多く、そうなると王道の英語学習を薦めるのも難しいように思う。

あくまでコミュニケーションツールとして割り切って英語を使うくらいの感覚で、とりあえず伝わり、聞き取れ、読めればOKとなるのは致し方ないように思う。

それが教育としてどちらのスタンスを取るかによって一元的にどちらかのスタイルになってしまうから議論になるのだろうけど・・・。

ただ結局、個人がどういう判断でどちらの道を歩むのか決めるところだと思うので、あまり教育に拘り過ぎなくてもいいような・・・。

好きな人は勝手に勉強するし、どちらかというと方法論よりも動機付けの方が大事だと思う。

と、ご多分に漏れず自分も英語教育について語ってしまったが・・・、とりあえず自分としては適正がないにしても、本書の達人たちを見習いつつ今後も英語学習を進めていきたい。

一言学び

当たり前の学習法を、とてつもない時間をかけ、とてつもない情熱と根気を持って実践しただけである


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