読書レビュー:『子どもに語る前に 大人のための「性教育」』(宮台真司/岡崎勝)

読書

読みたいと思ったきっかけ

こちらも『経営リーダーのための社会システム論』と同じ理由で、宮台真司氏の名前で検索したときに新刊として出てきたので購入した。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

1時間目 そもそも「性教育」って、なんですか?
2時間目 「性」とは、なんだろう?「愛」とは、なんだろう?
3時間目 「幸せ」な大人になるには、どうしたらいいですか?
課外授業 親の私たちに、教えて宮台さん!
授業のあとで    

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

1時間目(そもそも「性教育」って、なんですか?)

・外遊びについては、「アフォーダンス」の概念が役立ちます。大人たちは子どもに「よく考えて選択しなさい」といいますが、人間の行動の基本はもともと、「選択の主体性」=「能動性」ではなく、「非選択の自動性」=「中動性」。コールされて思わずレスポンスする構えです。(宮台)

・ちなみに「享楽」という概念は、快楽という概念から区別された、フロイト派のジャック・ラカンの言葉です。快楽がほかの快楽と比べられる相対的なものであるのに対し、「享楽」はほかと比べられない絶対的なものであることを表します。加えて「快楽は人それぞれだけど、享楽は(ゲノム的に)万人に共通だ」という含意もあります。(宮台)

・「性愛」に交換原理がもち込まれると、直ちにバランスが問題になるので、加害被害感覚が生じます。96年から報告されはじめたストーカーは、「ぼくはこんなに思っているのだから、お前も返すべきだ」という「交換原理の過剰」です。「贈与の本質である過剰」とは対照的です。両者を間違えやすいので注意が必要です。(宮台)

・「動機づけ」が「知識」よりも大切だとはじめて語ったのが、200年前の思想家ラルフ・ワルド・エマソンです。彼を引き継ぐ立場が「プラグマティズム」です。「実用主義」という翻訳は誤りで、正しくは「動機づけ主義」です。「知識より、動機づけ」を、その後の学問では「認識より、関心」「事実認識より、価値観」ともいいます。「政治教育」で選挙や国の仕組みを教えるのも大切ですが、それだけでは選挙に出かける「動機づけ」は得られません。「動機づけ」には、友だちと政治を語ることで生まれる価値観が必要です。若者の投票率の低さは、政治の話をKY(空気を読めない営み)として忌避することによる価値観の不在から生まれています。(宮台)

2時間目(「性」とは、なんだろう?「愛」とは、なんだろう?)

・これは本質的な問題です。言外・法外・損得外つまり「社会の外」に出ないと「性愛」は成就できないよ、という話をするのは、もともと若衆宿や体育会や「ウンコのおじさん」の役割であって、学校の先生は社会への適応を促す役割を負うので、難しいのです。もっぱら新住民が学校民主主義を支える現状ではなおさら難しい。(宮台)

・ぼくが代官山などでの「まちづくり」の現場で話してきたのは、住民民主主義が「まちづくり」を壊すこと。東京23区内で「まちづくり」に成功した場所では例外なく、大地主など旧住民の有力者(地付き層)が、地域に詳しいインテリ層を集めて、新住民の要求をはねつけてきています。代官山がまさにそうです。(宮台)

・社会心理学の山岸俊男は、日本人が他国の人よりも自己中心的である事実を統計で示しました。集団主義といわれるのも、滅私奉公の言葉が示すように、内集団(所属集団)の地位にへばりつき、外集団(非所属集団)を含めた全集団が乗るプラットフォーム(近代の公)に無関心なあり方を、称したものにすぎません。(宮台)

・いま若い人もそれを自覚して、「意識高い系」という言葉を使います。良さげな価値観を口にしていても、所詮はポジション取りがしたいだけ。実は価値観など存在しない。(宮台)

・「友愛」も「性愛」もともに、全面的な委ねや明け渡しに「開かれる」ことがなければ、死ぬ間際に振り返って鮮やかに思い出せるような幸いの記憶を刻めません。こうした共通性ゆえに、「友愛」と「性愛」のどちらかだけができて、どちらかはできないということはありません。両方とも共通の感情的能力が必要だからです。(宮台)

・「性愛」と「友愛」を切り離せないだけでなく、「友愛」と「公共的関心」のあいだにも深い関係があるということ。だから「性愛」の能力をそれだけ切り離して考えられません。「性愛」はダメだが「友愛」の能力は大丈夫とか、「性愛」も「友愛」もダメだが「公共的関心」はあるとかは、マクロな傾向としてはありえません。(宮台)

・ドレスコード破りが必ずしも「社交術」破りではない事実が見てとれます。「社交術」の本質は、外見についての相手の期待に沿うことではありません。すべてを弁えたひとかどの人物だと思わせることにあります。凡人はドレスコードを守ることで、すべてを弁えていることを示そうとします。それしかできないからです。でもジョブズは違う。彼はドレスコードを守らなくても、否、むしろ守らないことで、自分が「すべてを弁えたひとかどの人物」であることを示します。すべてを弁えている以上、ドレスコードへの相手の期待も弁えています。そこがモナコでの日本のスタジャン記者とは違います。そのうえでえ「期待以上のものを与える」のです。(宮台)

・人権主義的ゾーニングがダメなのは、アメリカのオルトライト(ネトウヨ)の総帥リチャード・スペンサーの論法でわかります。いわく「アメリカらしいアメリカを再建するには黒人を叩き出せ。黒人は黒人の国をつくればいいといっているのだから、差別ではない」。差別は、人権ではなく感情の問題だというのが、ローティです。つまり「あなたはこれ、私はこれ。でも認め合いましょう」というのは浅はかな主張で、多様性の擁護とは関係がありません。たとえ文化的背景が違っても、幼少期から一緒に学ぶことで、自分は白人だが黒人でもありえた、自分はクリスチャンだがムスリムでもありえたと思えないのであれば、感情が劣化しています。(宮台)

3時間目(「幸せ」な大人になるには、どうしたらいいですか?)

・「性愛」を考えるときの最大のキーワードは、幸せです。悲しみや憎しみを知らない人が「愛」の幸せを知ることはありません。「愛」は不幸の記憶があってはじめて可能になります。「あんなひどいことがあった、こんな悲しいこともあった、いろいろあって、いまこれがある」という感覚を伴わない「愛」など、ないのです。(宮台)

・そうした圧倒的な事実を弁えずに、「リスク管理が大事」というメッセージばかりを子どもに教えている時点で、その親や教員は完全に失格です。どうしたら不幸を避けられるかを教えるのもいいけど、どうしたら幸せになれるかを教えないと、過剰なリスク回避で子どもは「性愛」から遠ざかります。そうなっていますね。(宮台)

・岡崎さんがいうように、大事なのは「自己決定」です。それが日本では「自己決定」が認められずに「自己責任」だけ推奨されます。ヨーロッパは逆です。ヨーロッパでは「自己決定」が推奨されますが、「自己決定」は試行錯誤だから、失敗した場合には税金を使って公的に支援する。普遍主義的政策と呼ばれます。(宮台)

課外授業(親の私たちに、教えて宮台さん!)

・それで「総合的な学習の時間」がたいてい無意味なものになってしまいましたが、「制度を変えても、能力をもつ人材なくして、教育はまともにまわらない」という現実をぼくは学びました。「制度を変えて『性教育』をオープンにしよう」といっても、経年的に劣化してきた日本の教員や親には、それを担当する力がありません。(宮台)

授業のあとで

コメント

『経営リーダーのための社会システム論』がマクロ的な視点からの総論であるとすれば、本書はミクロ的な視点、すなわち個人の側から見た社会論と言える。

結局は社会を構成するのが個人である以上、個人レベルの行為態度を改善していけばより良い社会・共同体になる(はず)なので、その意味で個人レベルでどういった問題があるのか、それが社会システムとどのように連関しているのかを知るのにも本書は役立つ。

本書の主題は「性愛」となってはいるが、本書の中でも語られるように「性愛」「友愛」「公共的関心」は密接にリンクしているので、その意味でいうと単に「性愛」だけにフォーカスしているわけではない。(当然ながら「性愛」に関わるトピックにも割と深めに入ってはいくが)

子どもが良い「性愛」を獲得するためには、そもそもダメ親が囲い込み過ぎてはダメ、というのは耳が痛い。

子どものためを思って色々と良かれと思って過保護になると結果的に真逆の結果を生み出す。

自分がひとかどの人物で、豊富な経験や卓越した見識、類まれなコミュニケーション能力を保持するなら自分自身で子どもを囲い込んでも問題ないかもしれないが。(もっともそんな能力の高い人は子どもを囲い込んだりしないのだろうけど)

わたしはまだ子どもが小さいので露骨に教育の成果が表出するわけではないが、今後子どもが成長するにあたり避けては通れないのが教育の話であり、そのなかには当然「性愛」も絡んでくる。

そもそも自分自身が家庭内でそういった教育や対話を交わしたことがないので想像がつかないが、本書を参考にしながら必要な行動を取っていくしかない。

子どもの健全な成長のために有益な他者に接する機会を設けることが自分ができる精一杯のことかもしれない。

宮台真司氏による本書の続編?続号?も発刊されるようなので、発売されたらまた買って読もうと思う。

一言学び

制度を変えても、能力をもつ人材なくして、教育はまともにまわらない。


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