読みたいと思ったきっかけ
佐藤優氏の著作なので著者買い。
ただ、「哲学入門」の銘打った書籍は山のようにあるし、自分も10冊くらい持っている気がする。。。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
まえがき | : | 先哲と共に考える学知は役に立つ |
第一章 | : | 哲学とは何か ー 「緒言」と序章を読む |
第二章 | : | 古代哲学の世界 ー 第一章第一節、第二節を読む |
第三章 | : | 現代につながる古代 ー 第一章第三節、第四節を読む |
第四章 | : | 思想における中世的世界 ー 第二章第五〜七節を読む |
第五章 | : | 近代文化の開花 ー 第三章第八節、第九節を読む |
第六章 | : | 経験論の世界 ー 第三章第十節を読む |
第七章 | : | 啓蒙主義の克服 ー 第三章第十一節を読む |
第八章 | : | 弁証法的思考と新カント学派 ー 第三章第十二節を読む |
第九章 | : | 唯物論と現代哲学 ー 第三章第十三節、補章、むすびを読む |
あとがき | : | 「正しい戦争」を支持しないために |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
第一章(哲学とは何か)
・われわれは神学の専門家です。シュライエルマッハーが言うように、神学はその時代の哲学の衣を借りながら説明するので、哲学史の知識が必要です。ただし哲学の専門家のように高度な、または微に入り細を穿つ哲学の知識はかえって障害になるので、概略を捕まえる必要があります。このことは同時に、ビジネスパーソンーー国際的に活躍したいビジネスパーソンならなおさらーーが必要とする哲学の知識についても言えます。世界的なベストセラーになった『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』、『21 Lessons』など、イスラエルの歴史学者、哲学者であるユヴァル・ノア・ハラリの著作を読むときのベースとして必要とされる哲学史も、このレベルがちょうどいい。
・伊勢神道に対立する神道として、出雲信仰があります。出雲信仰の祭神はスサノオ、オオクニヌシです。これはよく覚えておいてください。
・西洋でも、哲学の根っこはギリシアの神話とつながっています。だから哲学とは、実は神話との連続性のなかにあるのです。
第二章(古代哲学の世界)
・しかし、裁判員を国民の義務にして慣れさせておくと、その次には災害時の徴用を行うようになると思います。例えば台風が来て、堤防をつくるので誰と誰と誰は、そこに行ってくれ、などと言う。国民の大多数が、裁判員としてお上に呼び出され、行かないといけないことに慣れてきたら、徴用がしやすくなります。そうするとその次は、徴兵です。だから私は、裁判員制度は徴兵制の準備だろうと思っています。裁判員制度が入ってきて、憲法に規定されない形で、国が罰則を持つ形で国民の自由を束縛できる法律をつくれたら、最終的には徴兵に持っていくでしょう。そのプロセスと見ているので、裁判員制度は危ない制度なのです。
・キリスト教では、肉体は滅びるけれど魂は永遠に生きると思うのが、よくある誤解です。これはキリスト教ではなく、グノーシス、もしくはネオプラトニズムの考えです。ただ、グノーシスやネオプラトニズムとキリスト教は絶縁したはずなのですが、時どき入ってくるのは事実です。ゲーテの『ファウスト』の魂はずっと生きて、そのまま彷徨っている、という見方などは、当時のカトリシズムの標準的な見方を示していると思います。
第三章(現代につながる古代)
・対象とはどういう意味でしょうか?対象は、向こう側に立っているという意味で、自分とは違うもののことです。相手の場所に立って見ることによって、主体と客体というダイコトミーをつくり出すわけです。これがギリシアテグ学、西洋的思考の根本です。主体と客体の基本が、対象という考え方です。よく「対象化する」という言葉を使いますが、それは混沌としているものを主体と客体に分ける作業のことです。
・アラビア半島経由で、イスラムから来た結果、西洋におけるアリストテレスの理解のかなりの部分が、実はプロティノスが言った内容なのです。…あるいは一般の哲学史でも、ネオプラトニズムにはあまりウエイトが置かれないため、結局キリスト教と哲学の結合がわからなくなるわけです。しかし鍵になっているのはプロティノスだということを、しっかり押さえてください。
・その思考の鋳型において、一見、全然違うようなものが実は同じ組み立てなのだということを、瞬時に読み取れる読み方を身につけてください。字面だけを読むのでなく、どういう構造なのかという視線で読む訓練をしてください。そうしないと、神学的な思考力は育っていきません。「これはどこかで聞いたことがある」「どこかで読んだことがある」ということを常に考えながら、思考の鋳型として見ていくのです。
・ここに「物活論」という語が出てきます。ヒュレー(Hyle)に由来するので「ヒロゾイズム」です。データ至上主義も「物活論」です。データにある揺れのような部分から生命が生まれていく、と考えられるからです。生命、生き物はアルゴリズムだ、命はデータに還元できるという考え方は、そのまま物活論が現代に蘇ってきたようなものです。AI、人工頭脳の考え方ーー物質そのものに生命が備わって、生きていると考えるーーは、基本的に物活論です。ちょっとしたデータの結びつきの違いから動物と鉱物に分かれるというデータ至上主義は、すべて物活論なのです。だから現代は、とても古い考え方が蘇っているわけです。
・つまりAI技術とは、きわめて唯物論的なのです。AIだけだと、唯物論にはなりません。AIとバイオテクノロジーが結びつくことによって、唯物論は完成するわけです。そうすると、合成生物学によって生命をつくり出すことも可能だ、という考えになってきます。このような考え方は、唯物論に基づく世界観から出ています。
・通常の宗教の開祖は、どんどん上に祭り上げられていって、神聖さを増していきます。ブッダ(生没年不詳)も、本当は悟りを開いた人間であるわけです。ところが、いつの間にか仏像ができ、それが崇拝の対象になっていきます。宗教は普通こういう傾向にあるのですが、常に引き下ろして、同じ人間に持ってくるベクトルが働くのは、キリスト教のシステムの中に受肉論が含まれているからです。まったくわれわれと同じ人間でないと、媒介項でないと救われないわけです。受肉論がどうしても必要になるのは、原罪観があるからです。原罪観は洗えば取れる汚れのようなものではないので、神が完全にわれわれと同じ場所に降りてこないと救われない、ということです。
第四章(思想における中世的世界)
・アンセルムスの話は実存的な、信仰の問題であり、スピリチュアルな問題です。一般論的な証明と同じように説明されたら、アンセルムス自身が一番驚くでしょう。それはカテゴリーが違うのだということを、われわれは知っておかないといけません。
第五章(近代文化の開花)
・ここで、哲学史の教科書だと間違えてしまうのですが、この時期のスコラ哲学は、デカルトらと同じぐらいの大きい存在です。スコラが本当に退潮していくのは19世紀に入ってからで、それまでスコラ哲学は、正統化された学問でした。今も例えば上智大学の神学部は、スコラ学を基本としています(トマス・アクィナスが主流)。ドイツの神学部でも、正統主義の授業ではプロテスタント・スコラを学びます。その意味では、スコラ哲学は克服されておらず、別の公理系として今も続いています。スコラは克服されたのだという一般史の考え方は、実態からずれています。
・デカルトは、イコール近代そのものです。デカルトなくして、啓蒙主義的な理性など絶対に出てこないし、座標軸をつくって代数学と幾何学を結び付けたのもデカルトです。それまでは代数学と幾何学は別々に発展していました。デカルトの議論は細かいですが、細かい議論と難しい議論とは違います。中世は難しい、イオニアの自然哲学も難しい、ただしデカルトについては難しくはありません。トレースしていけば大丈夫です。
・それぞれの両者のどちらにシンパシーを感じるかで、思考の鋳型が決まります。プラトンとアリストテレスのどちらに関心を示しますか。通常、プラトンに関心を示す人は、カント、キルケゴールが好きだ、と。アリストテレスが好きな人は、通常はデカルト、ヘーゲル、マルクスが好きだと、だいたいそのような鋳型になります。
・デカルトはそれほど細かくトレースしなくていいです。中世とライプニッツは、丁寧にトレースしてください。ライプニッツは、善のために悪が必要だという論理になるから、やはり怖いのです。悪が自律しているとは考えず、悪の力を過小評価したアウグスティヌスの持った考えが、ライプニッツに至って完成してしまうわけです。悪の自律という考えは、西側からは生まれず、ドストエフスキー(1821-1881)と出会う必要がありました。だからドストエフスキーは重要です。ドストエフスキーの意味は、正教世界においてみなが普通に思っていることを西側の人にわかりやすい小説という形態で書いたところにあるわけです。
第六章(経験論の世界)
・実はそれぞれの局面でさまざまな役割を演じ分けているわけです。こういう考えを「役割理論」(廣松渉)と言います。
・悟性は、到達できる認識であって、英語では「understanding」です。そして日本語としての「悟性」は仏教から来ていて、理性が悟りだとすると、悟性は悟りが開ける可能性を持つ、という意味になります。この「悟性」という中間的概念が、西洋哲学、特にドイツ観念論を理解するときの鍵になります。
・同時に、敬虔主義者にとって重要なのは敬虔な心なので、知識は必要ないと考えます。従って反知性主義が強くなります。すると、ライプニッツやヴォルフのように知性を重視するタイプとは相容れなくなってくるわけです。敬虔主義が持っている破滅性を理解する必要があります。
・日本で哲学史を学ぶときもヴォルフとヴォルフ学派はミッシングリンクになっています。ライプニッツから急にヒュームへ、そこから急にカントに飛んでしまいますが、実際はこのヴォルフ抜きにカントにつながらないのです。国際的なヴォルフ研究も、日本より50年は進んでいますが、日本では紹介されていません。とくに、ライプニッツはヴォルフがいなければ普及しなかった、という点を押さえてください。
第七章(啓蒙主義の克服)
・カントの話は、実戦に役に立つということです。世の中に出ると、「なでこんなに頭にくるのか」と感じるイヤなことがいろいろありますが、それはノモスが違うようだ、と見当をつけられます。
・ヘーゲルが『法の哲学』序説で言うように、ミネルヴァのフクロウは夕闇を待って飛び立ちます。それはつまり、一つの事柄が全体として認識できるようになるときにはすでに、それまでの時代が終わり、新しい時代になっている、というわけです。
・この淡野さんの教科書の流れでは、カント→フィヒテ→シェリング→ヘーゲルとなっていますが、これは通説的理解です。今の実証研究では少し変わって、カント→フィヒテ→前期・中期シェリング→ヘーゲル→後期シェリングという流れになっています。シェリングはヘーゲルによって克服されたという見方が、決定的に変わったわけです。後期シェリングは今や実存主義の先駆、あるいは弁証法神学の先駆と見られています。
第八章(弁証法的思考と新カント学派)
・ネオへーゲリアンで、ロシアからフランスに亡命した、アレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968)という人がいます。彼の著書『ヘーゲル読解入門ーー「精神現象学」を読む』の読み解きを利用し、それを理論化して刊行したのが、フクヤマの著書『歴史の終わり』です。『歴史の終わり』はヘーゲルの焼き直しで、東西冷戦終結をもって歴史は終わったので、以降は小さな差異だけの退屈な時代になり、大きな争いは生まれないと述べました。つまりアメリカの勝利が歴史の終焉であり、それによって市場原理主義が世界を席巻する。その後の世界は小さな差異しか産まない、ということです。ぜひ読んでください。フクヤマの説がなぜ成立しなかったか、ということが重要になるからです。
・ポイントは、実験可能な法則定立的な科学と、実験ができない個性記述的な精神科学、あるいは人文社会科学を分け、それらを制度化したアカデミズムの中に入れた、ということです。ここに新カント派の意味があります。
・啓蒙的理性で問題のすべては解決できません。啓蒙的理性というのは競争につながるので、そこで負け組が出てきます。「競争で負けるけれど、僕の思いはすごく強い」「僕/私のほうがすごいんだ」という思いがロマン主義ですが、ロマン主義は成功しません。結果的に「この世にはいいことなど何もない!みんな個々になればいいんだ。どうせ生まれてきたって、成績が良かろうが悪かろうが、最後はみな死ぬんだ」というニヒリズムに陥ります。啓蒙主義→ロマン主義→ロマン主義の挫折→ニヒリズムという流れになるのです。
第九章(唯物論と現代哲学)
・マルクス主義者の内在的な理解においては認識即行動、理論即実践となるため、手をこまねいて見ている、ということはないわけです。これはカルヴァンの予定説に似ています。…その意味ではマルクス主義の考え方は、プロテスタンティズムと親和性があります。
・ルサンチマンは恨みのことですが、「俺には特別の価値観がある」と言って、その恨みの感情を自分が持っていることすら抑圧するわけです。だから自分のほうが上だ、といった発想になる。それは弱者特有のものです。自分が本当はバカにされ、下に見られていても、その相手のことを「とてもいい人なんです」と言うようなケースも、ルサンチマンの表れです。弱者は、そういう形で合理化するしかない。だからルサンチマンは、近代の競争社会には付き物なのです。
・ここで学問と神話のあいだの連続性をつけるわけです。その意味で、学問と神話は同じことなのです。論理化されていると学問になり、論理化されていないと神話になる、ということです。コーヘンは、ユダヤ思想家でもありました。なおかつ新カント派、マールブルク学派の創始者でもありました。神学と哲学のあいだの差を論理化すると、同じ事柄を別に表現したものに過ぎない。コーヘンがこれを明らかにした、というのは重要です。
・ニーチェは競争社会が激しくなると、必ず流行ります。負け組が、それでも勝っているのは自分だと言いたいとき、ニーチェが便利に使われやすいからです。実存主義やニーチェは、自分可愛さが透けて見えるから、共通していじけた感じがします。神学とは相性が良くありません。
・われわれは知識人の卵です。何を身につけないといけないでしょうか?学知です。学知にも、エピステーメー(知となる部分)と、テクネー(語学や数学の計算技術、また訓練による論理学の技術など)があります。テクネーという道具を持っていないと、われわれが認識できる範囲も違ってきて、社会に働きかけるものが違ってしまいます。だから道具を持っているか、いないかによって、できることも認識も違ってしまいます。この道具主義という考えは、決定的に重要です。
・恐らく人間を理解するには、「生の哲学」のこの解釈学的な方法ーー追体験を重視するーーを取る以外ないと思います。「生の哲学」は、自分が今抱えている問題に向きあうには、私は最も有効な手法だと思います。ただ、そのように人に成り代わって一つひとつ考えるというのは、しんどい作業です。人を変えることはできないから、なおさらです。ある人が何かを考えることを禁止することはできないので、そういう人なのだと理解したうえで、どう付き合うか、あるいは付き合わないかを決めるしかない。付き合わなくても、いったん招き入れたら、どうしようもありませんが。悪魔を呼び出すのは簡単でも、追い払うのは大変です。だからどうしたらいいか悩み続けながら、哲学を一所懸命学ぶわけです。そこに哲学の意味があります。
・予知とは、「来年、○○大学に入れます」「あなたはこういう女性と結婚します」「明日、地震があります」というようなものです。一方で予定とは、隠されたものなので、人間にはわからないが、確実に起きるもののことです。その意味で、予知と予定は本質的に違います。
あとがき(「正しい戦争」を支持しないために)
・現在、日本のマスメディアは、当然のことだがウクライナに同情的になり、ロシア叩きが進行している。ウクライナに対して少しでも批判的な発言をすると、インターネット空間ではバッシングの対象になるという状態だ。また、ロシアの論理を解説するだけでも「ロシア寄りだ」と大きな反発を受ける。このような現状は危険だ。情勢分析は、心情や価値判断を一旦は括弧の中に入れて、冷静に行わなくてはならない。
コメント
あとがきに「本書は講義録をベースにしているので読みやすい」とある。
確かにこの分厚さ(400ページ以上)の割にページを繰るスピードは早かったような気がするが、しかし決して簡単なものではなかったように感じる。
哲学的な議論そのものが難しいということもあるが、元々が神学部の学生向けの講義であることから、神学的な要素に関する記述も多く、そこが更に難しい印象を与えているように思う。
わたし自身、これまで数々の哲学入門系の書籍に目を通してきているが、一向に身についている感覚はない。
大まかな流れであったり、各哲学者の概論的な内容はつかめているものの、詳細な内容や、それが何を意味するのかを説明することはできない状況にある。
もちろんこれは今まで読んできた書籍が悪いわけでなく、消化できずにいる自分に全面的に責任があるのだが、それだけ哲学を学ぶのは難しいということだろう。これは哲学に限った話ではないかもしれないが。
本書のなかで触れられるように「思考の鋳型」を摑むこと、ある考え方が過去のどの考え方を類似しているかを掴めるようになることは自分も極めて重要だと思う。
これはいわゆる抽象と具体の行き来という思考にも近しいわけで、それを考えると何かを考え、創出する過程においては必須のスキル?なのだろう。
本書についてはまだまだ消化不良の部分が多々あるので、こちらも繰り返し読んで知識を深めていきたい。
一言学び
「これはどこかで聞いたことがある」「どこかで読んだことがある」ということを常に考えながら、思考の鋳型として見ていくのです。
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