読書レビュー:『バカと無知』(橘玲)

読書

読みたいと思ったきっかけ

橘玲氏の著作は割と買っている。

最近だとでは『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』『スピリチュアルズ』『無理ゲー社会』を読んだ。

読書レビュー:『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』(橘玲)
本書の内容については『スピリチュアルズ』や『無理ゲー社会』のなかで記載されていた内容と重複する部分はあるが、PART5のこの世界の切り抜け方については上記2冊では触れられていなかったように思う。 昨今のFIREやミニマリストの隆盛が、この無理ゲー社会を生き抜く手段であるという点は合点してしまった。 経済格差の拡大に対応する形で、FIREを目指し、なるべく不必要なものを買わず、捨てるというミニマリストをベースとするのは、最近自分も囚われている思想だったので、そこに意識的になれたのは本書を読んで1番良かった点。 橘玲氏の著作については、Amazonレビューなどを見ると辛辣な意見も書いてあったりするが、自分としては毎回海外の事例を知ることができたり、現代社会の潮流とそれに対する人々の反応など、トレンドとその理由を知るきっかけを与えてくれるので、そこまで否定的な意見はない。 まあ確かにここまで著者が有名になると自己啓発書ではないが、読んでいて楽しい、気分が良いから著書を買うという側面も否定できない。 そういう意味では本書はわたしにとっては自己啓発書や娯楽小説のようなものなのかもしれない。

今回の著作は『週刊新潮』の連載をまとめたものに加筆・修正したうえで、2つ付論を新しく書き下ろし?したものらしい。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

まえがき    
PART1 正義は最大の娯楽である
PART2 バカと無知
PART3 やっかいな自尊心
PART4 「差別と偏見」の迷宮
PART5 すべての記憶は「偽物」である
あとがき    

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

PART1:正義は最大の娯楽である

・脳の基本的な仕様は、「被害」を極端に過大評価し、「加害」を極端に過小評価するようになっている。被害の記憶はものすごく重要だが、加害の記憶にはなんの価値もない。これが人間関係から国と国との「歴史問題」まで、自体を紛糾させる原因になっている。

・こうして、「自分についての噂を気にしつつ、他人についての噂を流す」というきわめて高度なコミュニケーション能力(コミュ力)が必要とされるようになった。「社会脳」仮説では、ヒトの知能が極端に発達したのは、集団内の権謀術数に適応するためだとする。

・SNSの登場でこうした「正義の鉄槌」が簡単に振り下ろせるようになり、欧米では「キャンセルカルチャー」として大きな社会問題になっている。脳は上方比較を損失、下方比較を報酬ととらえるから、高い地位にある者を「キャンセル」し、引きずり下ろすことには大きな快感がある。

・ひとがステイタスを誇示する方法には、「支配(権力)」「成功(社会・経済的地位)」「美徳(道徳)」の三つがある。このうち権力の獲得は誰でもできることではないし、成功のステイタスには資産(豪邸やスーパーカー)や評判(SNSのフォロワー数)などの証拠(エビデンス)が必要だ。それに対して道徳的なステイタスの獲得は、「悪」を叩けばいいだけなのだから、誰でも(匿名でも)可能なのだ。

PART2:バカと無知

・これは「人並み以上効果」として、以前からよく知られていた。恋愛や仕事での成功の見込みであれ、わが子の才能であれ、あるいは車の運転技術でも、「平均と比べてどうですか?」と質問すると、大多数のひとが「自分は人並み以上だ」とこたえるのだ。

・それ以上に問題なのは、一見、自信たっぷりに振る舞っていても、内心は強い不安を抱いている者が会議の場にいることだ。このタイプはつねに自尊心を高めなくてはならないので、話し合いの最中に頻繁に「マウンティング(優位性の誇示)」を行う。なぜなら、自分より劣った者がいることを確認すると自尊心が上昇するから。誰でも思い当たるだろうが、こういうタイプはどこの会社にもいる。それが上司や役員になると、意志決定は悲惨なことになる。

・ワンマン企業が成功する(可能性がある)のは、「独裁者」の意識決定によって「バカに引きずられる」効果を避けられるからなのかもしれない。

・原理的に考えれば、バカを排除する以外に、「バカに引きずられる効果」から逃れる道はない。このように考えると、どんどん隣の大国に似てくるが、性悪説のぎすぎすした社会ではなく、性善説を守ろうとすればこうなるほかないのかもしれない。

・いじめ問題の本質は、学校という逃げ場のない空間に同世代の子どもたちを”監禁”するという、進化の歴史ではあり得ない「異常な文化」にあるのだろう。

・社会がリベラルになり、すべてのひとが平等の権利を保障されるのはもちろんよいことだが、人間関係がフラットになると、どんな言葉が相手を傷つけるかわからなくなる。こうして若者たちは、「よろしかったでしょうか」のような過剰な敬語を使うようになり、会社でも上司が部下に敬語で話しかけるのが当たり前になった。いまや、すべての会話が相手の自尊心を傷つけないよう、最新の注意を払って行われている。――興味深いのは、アメリカでは平社員が上司ばかりか社長まで名前で呼び捨てにするという逆の方向(カジュアル化)で形式上の平等が達成されていることだ。

・ここまではよく知られているが、なぜヘックマンが就学前教育を重視したかというと、それ以降の教育が学力をほとんど向上させないという事実を受け入れざるを得なかったからだ。政府の教育資源にかぎりがある以上、まんべんなくばらまくのではなく、エビデンスによって費用対効果が確認されている貧困層の幼児に投資を集中するべきだとヘックマンは主張した。

・優生学は人間を家畜と同じと見なし、適正がある(とされた)者同士を交配させれば人類はより早く進化するとして、ホロコーストのような悲劇を生んだ。それに対して、遺伝子スクリーニングや遺伝子編集などのテクノロジーを、親が子どものために自由意志で利用するのが「優生学2.0」だ。

PART3:やっかいな自尊心

・いちばんの問題は、皇族やその関係者には、直接反論したり、裁判で名誉毀損を訴えることが事実上、封じられていることだ。これは反撃できない者を徹底的にいたぶるのと同じで、「集団リンチ」以外のなにものでもない。さらにグロテスクなのは、「あんな男と結婚したら不幸になると、善意のアドバイスをしただけだ」などと述べる者がいることだ。そもそもなぜ、わずかな税金を払っているというだけで、見ず知らずの他人の恋愛や結婚に口出しする権利があるのか。自ら選んだわけでもない「身分」によって、どんな誹謗中傷にも耐えなくてはならないのなら、自由や人権、プライバシーの保護はどうなるのか。

・自尊心というのは、そのひと固有のパーソナリティというよりも、他者との関係性で決まるものだ。

・日本がどんどん「貧乏臭く」なっていく過程と、2000年以降の嫌韓・反中の排外主義の急速な広がりは見事に一致している。韓国や中国はそれ以前からずっと「反日」だったのだから、この変化は、「アジアで一番」という日本人の自尊心が揺らいだことでしか説明できない。

・皇室はいま、「わたしたちの夢を壊すな」という高齢者(および右翼・保守派)と、「特権は許さない」という「下級国民」からの激しい攻撃を浴びている。そしてこの風当たりは、今後ますます強くなっていくだろう。”平等”な社会では「主権者」である市民が絶対化し、政治家や官僚など「権力者」のちいはすっかり地に落ちた。次は皇族の権威が引き下げられて、「国民の下僕」としてしか存在を許されなくなるかもしれない。果たしてそのとき、天皇は「日本国の象徴」でいられるだろうか。

・「ジェンダー差別から解放された」家庭の年少の子どもたちが、逆に男女の性役割を積極的に受け入れるとの調査もある。この皮肉な現象も、「幼い子どもは”権力”に惹きつけられる」とすれば同様に理解可能だろう。子どもは親の言葉をそのまま受け入れるのではなく、自分が理解できるようにしか理解しないのだ。

・ここから、子どもにとって重要なのは絶対的な損得(経済合理性)ではなく、相対的な損得(進化的合理性)であることがわかる。なぜこんなことになるかは、わたしたちの祖先がグローバルな市場取引の世界ではなく、最大で150人程度の濃密な共同体のなかで暮らしていたことから説明できるだろう。

・そう考えれば、わたしたちはみな自尊心が低く(同調する)、同時に自尊心が高い(競争する)ように「設計」されている。自尊心をめぐる議論が混乱するのは、それを「高い」か「低い」かの二元論にしてしまうからだろう。自尊心が高いひとをうらやましいと想うかもしれないが、ナルシシストを除けば、それはたんに、自尊心が高く見えるように上手に装っているだけだ。なぜなら、自尊心が極端に高い(同調性のまったくない)ひとは、とうのむかしに共同体から排除されるか殺されるかして、遺伝子を残すことができなかったから。

・集団内の序列の変動は死活問題なので、ヒトの脳は、下方比較(マウントすること)を報酬、上方比較(マウントされること)を損失と感じるように進化した。相手にマウントすると「自己肯定感」が高まってよい気分になり、逆にマウントされると、脳内に大音量で警報が鳴り響く。たとえそれが、「善意」の名の下に行われたものであっても。

・このことは、教育が成立するには教師の権威が必須である理由を教えてくれる。生徒が教師を尊敬しているか、すくなくともその科目については自分より高い能力をもっていると認めているのでないかぎり、あらゆる言葉は「攻撃」と受け止められてしまうのだ。

・この一連の実験は、なぜボランティアに人気があるのかを教えてくれる。善意の名を借りて無力の人間をサポートする側に回ることは、自尊心の低いひとにとって、それを引き上げるもっとも簡便な方法なのだ。これも「言ってはいけない」のひとつだろうが、ボランティアにかかわったことのあるひとは、うすうす気づいているのではないだろうか。

PART4:「差別と偏見」の迷宮

・「性別」と「年齢」がなぜ重要かは、進化論的に明快に説明できる。相手が子どもや老人なら、危害を加えられる恐れはないから無視すればいい。男にとって、若い女は性愛の対象で、若く屈強な男は生存への脅威となるから、特別な注意・関心を引く。女にとっては、見知らぬ若い男は性愛の対象であると同時に、暴力を受ける可能性もあるから、より複雑で高度な判断が必要になるだろう。

・貧乏だと自分一人では生きていけず、他者や共同体に依存するしかない。こうして、否応なく、他人を信頼するようになる。なぜなら、信頼してくれないひとを助けようとは誰も思わないから。逆にいえば、お金さえあれば、他者の信頼がなくても困らないから、礼状や返礼のような煩瑣なルールを気にしなくてもいい。「お金ですませる」経済的な取引は、ものすごく快適なのだ。

・「信頼は大切だ」と、当然のようにいわれる。信頼がなければ社会は成り立たないから間違いではないものの、これはコインの表面にすぎない。「信頼」と書かれたコインの裏には、「服従」の文字が刻印されている。日常生活では、わたしたちはみな、他者を信頼しつつ裏切り、服従しつつ反抗するという複雑な社会ゲームをしている。

・世の中には「きれいごと」ばかり並べるひとがいる。一般に「リベラル」と総称されるこのひとたちがうさんくさいのは、公の言動で「道徳の貯金箱」がプラスになっていることで、日常的な場面では帳尻を合わせてもいいと思い、不愉快な言動をするからかもしれない。「きれいごと」は魔法の呪文と同じで、それを口にしただけでひとを「差別的」にするようだ。

・人種や性別などの属性ではなく、一人ひとりの個性で評価・判断すべきだという「カラー/ジェンダーブラインド」は、いまやリベラルな社会の黄金律になっているが、これを徹底するとすべてが「自己責任」になる。「黒人だから」とか「女だから」などの属性をいっさい考慮してはならないのだから。

・わたしたちはどんな理由でも(あるいは理由などなくても)、グループ分けされたとたんに、たちまち「内集団」を形成し、そのメンバー(俺たち)に対して、「外集団」(奴ら)よりずっと親切に振る舞う。

PART5:すべての記憶は「偽物」である

・誰でも子ども時代に迷子になって不安に思ったことや、家族と一緒にショッピングセンターに言った思い出があるだろう。すると、実際に起きていない出来事であっても、ちょっとしたきっかけで、こうした記憶の断片が簡単に結びついてしまう。だが被験者は、この過程を「忘れていた記憶が蘇った」と体験するため、捏造された記憶が”事実”になってしまうのだ。

・あくまでも私見だが、これはアメリカが「軽躁社会」で、日本がメランコリー型うつ病(単極性うつ病)に罹患しやすい「抑うつ社会」だと考えれば、うまく説明できる。日本人は内向的で神経症傾向が高く、改良は得意だがイノベーションが苦手で、時刻表通りに電車が運行しないと許されず、感染症は「同調圧力」で対処する。個人でも社会でも、目に見えるちがいの背景には遺伝的・生物学的基盤がある。これをわたしたちは個性や国民性と呼ぶのではないだろうか。

・誤解のないようにいっておくと、これは「トラウマは偽物だ」ということではない。「すべての記憶は偽物」なのだ。近年の脳科学のもっとも大きな発見のひとつは、脳には記憶が「保存」されていないことだ。脳はビデオカメラのように、起きたことを正確に記録し、いつでも再生できるようにしているわけではない。脳にハードディスクが埋め込まれているのではなく、なんらかの刺激を受けたとき、そのつど記憶が新たに想起され、再構成される。記憶はある種の「流れ」であり、思い出すたびに書き換えられているのだ。

あとがき

・ひとびとが誤解しているのは、これをなにか異常な事態だと思っていることだ。そうではなくて、ヒトの本姓(脳の設計)を考えれば、世界を陰謀論(進化論的合理性)で解釈するのが当たり前で、それにもかかわらず理性や科学(論理的合理性)によって社会が運営されている方が驚くべきことなのだ。

・進化心理学では、知能の目的は自己正当化だとされる。わたしたちは(無意識のうちに)自分の主張=物語を一貫させようとしている。こうして賢いひとほど陰謀論にはまると取り返しがつかなくなるのだが、これはたんなる知識の欠如ではない。道徳的に誤っていることは、共同体のなかでのステイタスを大きく傷つけ、自分の物語(アイデンティ)を崩壊させるのだ。

・ひとはステイタス=自尊心を守るためなら死に物狂いになるから、いくらでも自分を正当化する理屈を思いつく。これが「見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く」ことで、ジュリアス・シーザーの時代から人間のこうした本性は知られていた。

コメント

元々が週刊誌の連載であったこともあってか、今までの橘玲氏の著作を読んできた人であれば既に読んだこともある内容が複数あったはずであり、その意味でいうと最近の著作の「総集編」ともいえる内容になっている。

といってもキャンセルカルチャーといったワードは前の著作に出ていなかった気もするので、わたしとしてはすべてが既知の内容というわけではなかった。

橘玲氏の著作は基本的に実験のデータを用いたエビデンスベースで書かれている。

こういった実験については何回か繰り返し読まないと概要を忘れてしまう。

氏の著作を繰り返し読むことで段々と実験の内容も頭に残りやすくなってくるから、そういうところにも「総集編」でも読む価値が出てくるのかもしれない。

本書のなかで「原理的に考えれば、バカを排除する以外に、「バカに引きずられる効果」から逃れる道はない」と出てくるが、これは加速主義の思想に近い。

「倫理的」であり、知能の高い者によって政治社会を運営するようにすれば「バカ」に引きずられることもなくなるし、世界はより「良く」なる。

プラトンの哲人政治のようなイメージなのか・・・。

最近ではイタリアで右派政権が誕生したりと、世界各国でポピュリスト的傾向を帯びた政党が躍進しているが、こうした運動が一般的に大衆に支持されたものだとすると、本格的に資本家、知識人といった社会階層上部の人々が嫌悪感を抱いて、そこから脱出する術としてより資本主義を徹底して格差を拡大していくことで、テクノロジーを用いて大衆も満足させながら、現実世界への影響を完全にシャットアウトする方策を取るかもしれない。

直感的には嫌な印象を受けるものの、少し考えていくと「そういった世界で何も知らずに幸せに時を過ごすのも悪くないのかもしれない」と思い始める。

自分の認知としては知らなければ世界は存在しないわけで、そうであれば特にそういった体制に憤慨することもないだろう。これは諦念なのかわからないが・・・。

いずれにしても橘玲氏の著作を読むことで政治社会の問題の裏に、集団・個人の進化論的な理由がなにかしら影響していることがわかる。

先日読んだ『シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラヴィカント』のなかでも進化論を学ぶべきこととして挙げられていた。

現代社会を理解するうえで進化論は必須の知識・教養となってきている気がする。

一言学び

集団内の序列の変動は死活問題なので、ヒトの脳は、下方比較(マウントすること)を報酬、上方比較(マウントされること)を損失と感じるように進化した。


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