逃げとしての自己研鑽

仕事

自分で言うのもおかしな話だが、わたしは「意識高い系」なところがある。

「意識高い系」はウィキペディアにおいて、

「自分を過剰に演出するが中身が伴っていない若者(言い換えれば、虚栄心が強い)、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称」

と定義されている。

既に若者ではないので厳密にいうと「意識高い系」ではないのかもしれないが。もっと痛々しい・・・。

何かを学びたい、学習したいという意欲はあり、本を買ったり、セミナーに行ったりするものの結局何も身に付かず、人生が好転しない。要は結果が出ていないわけだ。

それでも断続的には学習を続けるし、興味のある分野はどんどん増えていく。学びたいことも色々と出てくる。

しかしながら、何で結果が出ないのに学ぼうとする姿勢だけは持ち続けているのだろうか。自己研鑽することを厭わないのは何故なのか。

そう考えていたとき、ふと思った。自己研鑽が逃げる場として機能しているからだと。

結果は出ないし、自分の人生が良くなっているわけでもないが、自分は学ぼうと努力しているし、本も読んでいる。この「やっています感」がいつかは結果が出るかもしれないという淡い期待を持たせている。

要は、結果が出ようが出まいが実態は関係なく、結果が出るかもしれない、という可能性・期待だけが重要なのだ。

だからこそ、結果を絶対に出そうという意識も薄弱になる。ダラダラと勉強を続けて、結局何も身にならないまま年を経る。これまでもそうだったし、これからもそうなる未来が見える。

そして成果や結果云々の可能性が加齢とともに減少したとき、最後は自分の自尊心保持のために教養主義に逃げ込むことになる。

そういった「教養主義の罠」を山口周氏は「幸せになるには仕事の出来不出来なんか関係ない、教養こそが大事なんだぜ、などというのはまやかしで、それこそ「無教養」だということを忘れてはなりません」と喝破する。(『独学の技法』p. 137)

自己研鑽という逃げ場に安住しないようにするには、強く結果を出すという意識を強く持つほかない。結果を残すという意識の希薄さこそ、自分のこれまでの人生における全ての「残念感」の原因だと思う。

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