読みたいと思ったきっかけ
ずっと読みたいと思っていたが、タイミングを逸したままになっていた。
最近、歴史関連の書籍を読むブームが来ていることもあって本書も購入した。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
はじめに | ||
第一章 | : | 教養主義 |
第二章 | : | 若き外交官のアメリカ |
第三章 | : | 動乱の欧州へ |
第四章 | : | 学究の日々と日米開戦 |
第五章 | : | 在独日本大使館・一九四四 |
第六章 | : | ベルリン籠城 |
第七章 | : | ソ連占領下からの脱出 |
第八章 | : | 帰朝 |
附録 | : | 吉野文六 ドイツ語日記 |
あとがき | ||
文庫版あとがき |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
第一章(教養主義)
・一般論として、虚心坦懐、批判的理性、多元論、プラグマティズムなどで表現される概念は、外交官として成功する上で役に立つ。なぜなら、外交は理論によって動く世界ではなく、経験の積み重ねが大きな意味をもつからだ。その意味で、英米系の経験論やプラグマティズムと親和的なのである。高等学校時代に身につけた教養をその後の人生で吉野は最大限に活用するのである。
・日本ではよく理解されていないが、自由主義の特徴は「愚行権」の尊重である。愚行権とは、他人の言説や行動で、愚かに見えることであっても、極力それを認め合うということだ。
第三章(動乱の欧州へ)
・日本人は中立国という言葉を額面通りに受け止めるが、それは間違いだ。国際政治の現実において「純正中立」なるものは存在しない。
第四章(学究の日々と日米開戦)
・ビアホールで、ヒトラーは徐々に演説と説得の技法を身につけ、カリスマ性を獲得していくのである。これは酔った勢いのいい加減な政治活動のように見えるが、そうではない。ドイツのような身分制の伝統が強く残る社会で、ビアホールは、中産階級と労働者が平等な立場で出会うことができる「公共圏」なのである。イギリスで、喫茶店(コーヒーハウス)におけるおしゃべりから公共圏ができ、それがやがて市民的な議会に発展していった経緯とも類否的だ。ビアホールに集まる人々が増えるにつれて、ヒトラーの演説にも磨きがかかり、カリスマ性を帯びていくのだ。
・社会が匿名を好むようになる状況の背後には、異論を唱えるものを排除しようとする全体主義的な力が存在するのだ。現下日本でも、個人情報保護という大義名分によって匿名化が急速に進んでいるが、その背後に少数者を排除する同調圧力があることを、多くの日本人は認識していない。
・ナチス・ドイツ第三帝国が内側から崩れ始めてきたのである。ヒトラーは、軍の最高指導者でもある。その最高指導者を職業軍人が平気でなじるようになる。ナチスのような高度国防国家においては、軍人こそが官僚の中心である。国家が崩壊するときは、まず官僚が自らの最高指導者を平気で非難するようになる。
第五章(在独日本大使館・一九四四)
・1940年にすでに日独の軍事同盟は成立しているのである。それにもかかわらず、日米開戦後になってはじめて、あわててこれらの機材や情報のやりとりをしているということは、裏返して言うならば、日独の軍事同盟が紙の上での約束を超える実体的関係ではなかったということを表すものだ。これに対して、連合国側は、米英では協同作戦を展開し、アメリカもソ連に対して最新の航空機を供与していた。
第六章(ベルリン籠城)
・日頃勇ましい軍人が危機に取り乱すこともあれば、普段は凡庸に見られていた領事担当の外交官が、ソ連軍の進攻を受けたベルリン郊外で邦人保護の業務を見事になしとげる。もっとも普段凡庸な者が、危機的状況で取り乱すこともある。危機に直面した人間の行動は、その時にならないと、誰もわからない。
・アメリカ軍に捕らえられるくらいならば大島大使は割腹自決をする、と周囲の人々は半ば心配し、半ば期待していたのだと思う。しかし、死に対する覚悟は、実際にその瞬間になればいくらでも揺らぐ、脆いものなのだ。大島も自決を考えたことがあるはずだ。だが、最後の瞬間になって、怖くなったのだと思う。一旦、怖くなり、怯んでしまえば、生き残ることを正当化する理屈はいくらでも見出すことができる。
コメント
本書も元々単行本が出版されたときに買おう買おうと思っていたのだが、タイミングを逸したまま今に至っていた。
吉野文六という外交官の経験について、インタビューをもとにして時系列で追っていくのだが、激動の第二次大戦下のドイツでの経験が中心になっており、小説のような展開になっている。
まさしく事実は小説より奇なりの世界。
歴史、特に近現代史に関連する情報に接すると、人間の行動や考え方は根本的には変わらないし、それこそ尊敬に値する人間、ひとかどの人物と言える人間や、自己保身に走る人間の数は現在とさほど変化していないという思いが強くなる。
本書のなかでも当時の大島駐独大使が「大使は本省の訓令に従って動いているだけである。従って政策の遂行に対して責任はない」と語ったというエピソードが記載されている。
宮台真司氏も述べていることだが「ふだん見せる顔はアテにならない」ということだろう。
平時には心強く思え、頼りになる人であっても緊急時にはどうなるかわからない。宮台真司氏は「本当に信頼できるかどうか」についは判断を保留するクセがついた、と述べているが、確かに平時だけで判断していてはいざという時に梯子を外されかねないので、それに対応するには判断を保留する他ない。
もっとも誤りを認めずに、自己保身に走る。どの時代にもそういった類の人物はいるし、自分自身もそうなってしまう可能性を常にはらんでいる。
対策ではないが、こういった過去にあった個々の事例を知って、自分の中でストックしておくことで、日頃の行動を律するようにできるかもしれないし、緊急時にも後ろ指を指されない行動を取れるかもしれない。また同時に人を見る目も養えるかもしれない。
いざという時の自分がどう動くかということは、もちろんその時になってみないと自分自身もよくわからないが・・・。
結局は後世の人が歴史・過去を評価する際に後ろめたさのない言動をいかにできるかに掛かっているように感じる。わたしのような小市民ではここまで意識する必要ないかもしれないが。
戦争という極限状況における人間模様・状況を学ぶためにも、また当時の外交官の世界を垣間見るためにも本書は有益に思う。
ページ数が多いので少し分厚く、取っ掛かりづらく感じるかもしれないが。。。
一言学び
怖くなり、怯んでしまえば、生き残ることを正当化する理屈はいくらでも見出すことができる。
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