読みたいと思ったきっかけ
宮台真司氏の名前で検索したところ新刊として出ていたので購入した。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
プロローグ | : | 社会という荒野を仲間とともに歩くー野田智義 |
第1章 | : | 構造的問題とは何か |
第2章 | : | 2段階の郊外化とシステム世界の全域化 |
第3章 | : | 郊外化がもたらす不全感と不安 |
第4章 | : | 3段階めの郊外化と人間関係の損得化 |
第5章 | : | 「われわれ意識」が喪失した社会をどう統治するか |
第6章 | : | 神格化するテック、動物化する人間 |
第7章 | : | あなたにとって「よい社会」とは? |
第8章 | : | 共同体自治の確立とリーダーの条件 |
エピローグ | : | 天才・宮台真司の絶望と希望ー野田智義 |
あとがき | : | 宮台真司 |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
プロローグ(社会という荒野を仲間とともに歩くー野田智義)
・それならば、システムからメリットだけを受け取り、デメリットを排除すればいいではないかと考える人もいるかもしれないが、残念ながらそれも不可能だ。なぜなら社会は「つまみ食い」や「いいとこ取り」を許さない。よいところも悪いところも一緒に受け入れざるをえないものだからだ。
・したがって、本書は、単に知識や思考法を身につけてもらうためのものではない。みなさん一人ひとりに、自分は何者か、何に挑戦するのかを問いかける触媒を提供するものだ。
第1章(構造的問題とは何か)
第2章(2段階の郊外化とシステム世界の全域化)
・ただ、日本では明治以降、西洋の文明やシステムを取り入れていったものの、敗戦を挟んで60年代の中ほどまでは、伝統的価値観や古い共同体が各所に残っていました。だから、アジアの国々も今後10年、20年ぐらいの間は、伝統的価値観や古い共同体が残り続けるでしょうね。しかし、その後の展開は、日本とまったく同じようになるだろうと想像できます。(宮台)
・ところが、システム世界の損得勘定になじんでいくうちに、人々は安全・快適・便利しか考えなくなります。安全・快適・便利こそ、損得の中身だから、仕方ありません。すると、人々は、より安全な、より快適な、より便利なシステムを望み、それに依存するようになります。システムの側も、それに適応して、ますます安全・快適・便利を提供するようになり、多くの人々を抱え込んでいくようになります。(宮台)
第3章(郊外化がもたらす不全感と不安)
・精神障害は心の病気だとされます。…他方、人格障害は、かつて性格異常と呼ばれていたもので、病気ではなく、単に感情の働きがふつうではない、感情が壊れているということです。(宮台)
・ただし、人格障害が生まれつきかというと、そうではありません。人格障害の重要な要因は、成育環境です。感情の働きの多くは習得的で、人がどんな人間関係の中で育ってきたかで異なってきます。(宮台)
・つまり、加藤(注:秋葉原通り魔事件の犯人)は自分には入れ替え可能なポジションしか与えられていないと強く感じていた。ここに重要な問題が潜んでいます。それは、精神科医の斎藤環さんが指摘しておられることですが、自身を入れ替え可能な存在だと思う人間は、他者のことも入れ替え可能な存在だと見なすということです。(宮台)
・僕らの祖先が生きていくうえでの脅威は、集団と調和できなかったり、集団から阻害されたりすることでした。そういう死活的事態を避けるために、人類の脳は孤独に社会的苦痛を感じるように進化したのです。(宮台)
・欧米の事例を理解するのに重要なのが、社会学で言う「相対的剥奪感」と「外部帰属化」という概念です。人は、絶対的な不満というより、何かを比較の対象とした不満、「過去よりもひどい」とか「周りよりも状態が悪い」といった不満を感じやすい。これが相対的剥奪感です。加えて人は、わかりやすい異物や、昔はなかったような対象を指して、「悪いのはこいつらだ」と決めつけがちです。これが外部帰属化です。(宮台)
・第1次世界大戦後のワイマール共和国で、なぜ民主制を土台に独裁政権が誕生したのか。その背後にあったのは、経済的没落の不全感や没落の予想による不安から生み出された、外部帰属化としてのユダヤ人差別でした。こうした分析をした人たちは、ドイツのユダヤ系の学者たち、フランクフルト左派と呼ばれる人たちで、別名「フロイト左派」とも呼ばれます。(宮台)
第4章(3段階めの郊外化と人間関係の損得化)
・そもそも性愛関係は、喜怒哀楽を含めた包括的・全人格的なものです。僕たちは性愛を通じて、自分が根源的に肯定される体験を得ました。しかし、性愛が属性主義に陥るほど、ほかに代替できない喜びは、小さくなります。だから、属性主義を背景に、男女がともに性愛をコストとベネフィットという損得勘定に帰着させてしまうのは、実は自然な成り行きです。(宮台)
・子どもを持つと、いい幼稚園に入れ、いい学校に進学させ、いい会社に就職させるというふうに子育てし、それに成功して周囲の人たちから「いいね」ボタンを押してもらいたいと考えるようになります。「いいね」ボタンはほかのことでも押してもらえます。そこでは、子どもを育てることのメリットとコストが天秤にかけられるのです。つまり、子どもをつくるかどうかも損得勘定による判断になるということです。社会学的には、それが少子化の最大要因です。(宮台)
第5章(「われわれ意識」が喪失した社会をどう統治するか)
・ルソーが理想としたのは民主政の社会、それも直接民主制の社会でした。といっても、彼が擁護していたのは、直接民主制という制度そのものではなく、直接民主制がもたらす帰結です。具体的には、統治者も行政官も不要な、「みんなでみんなを統治する社会」の実現です。そのために必要となるのが、「個人が、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考える」という感情的能力で、それがピティエです。(宮台)
・この講義では「人々がシステム世界(市場と行政)を頼るほど、人を頼らなくなって自動的に感情が劣化する」と説いていますが、これはスミス→マルクス→ウェーバーという流れの上にあるオーソドックスな思考なのです。(宮台)
・他方、規模の大きな国家では「国民は仲間だ」という意識を醸成するために、戦争が使われてきました。戦争のために「国民は仲間だ」があっただけでなく、「国民は仲間だ」のために戦争があったのです。その証拠に、戦争が終わって時間が経つほど、課税の累進率が低下してきた歴史があります。戦争が忘却されると「国民は仲間だ」という意識もまた忘却され、高い累進課税率を維持できなくなるからです。(宮台)
・社会学では「構造化理論」といいますが、すでにでき上がった社会は、諸個人を適応させ、そうした諸個人の適応が、すでにでき上がった社会をますます強固にします。(宮台)
第6章(神格化するテック、動物化する人間)
・移民国家アメリカの社会は多人種・他民族で構成されており、人間関係は互いを知らないという「不信ベース」で成り立っています。人間集団の基本は、同じ価値や目的を持つ人たちが集まるアソシエーション(組織集団)で、行動に責任を負うのはあくまでも個人です。またキリスト教原理主義の国なので、人々は神に見られていると感じており、汎システム化によって人間が経験する精神的不安定にも比較的体制が強い土壌が備わっています。(宮台)
・人々はメタバースに「没入」するほど幸せになるのだから、現実などどうでもよくなるでしょう。そうすると、人々はもはや仮の場にすぎないリアルでの公正や正義を求めなくなります。政治のイデオロギーはもちろんのこと、人間にとっての倫理はなぜ必要なのかを問うことさえ、意味があるのか疑問視されることになるでしょう。これからどうなっていくのか、現時点では明確にはわかりません。(宮台)
・道徳的エンハンスメントは、アメリカではすでに倫理学者の間で議論の的となっています。人々が仲間として気にかけられる範囲はゲノム的に150人が上限で、これを「ダンバー数」といいますが、「ならば、出生前のゲノム操作でこの上限値を上げてしまえば、よい社会になるだろう」という議論をどう扱えばよいのかといった類の話です。それが現実に議論されている事実を申し添えます。(宮台)
・つまり、社会(部族や国)は人がつくれても、世界(あらゆる全体)は人がつくれないという問題です。なぜか。野田さんがおっしゃったように、われわれは「人間がこの世界をつくった」という話に耐えられないからです。これは「世界はどうとでもありえた」という認識に関係します。「世界の外にいる『絶対的な存在』の意志次第で世界はどうとでもありえた」という認識には耐えられても、「世界の中にいる『相対的な存在』の意志次第で世界ーーたとえばゲーム世界ーーがどうとでもありえた」という認識には耐えられない可能性があります。(宮台)
・新反動主義社たちは、民主主義の立て直しなどという「制度による社会変革」をできるだけ早く頓挫させ、「テクノロジーによる社会変革」に一気に移行しようと考えるのです。彼らは、人々が民主政に絶望するような出来事を期待しており、それで社会が混乱すれば、不安を感じた人々がテクノロジーへの依存を強め、自分たちが理想とする未来がより早く実現すると信じています。(宮台)
第7章(あなたにとって「よい社会」とは?)
・だからこそ、社会の統治の未来を考えるときには、自分たちは「どんな成育環境を、自分の子どもや仲間に提供したいのか」という問いが重要になるのです。別の言い方をすれば、「どんな成育環境に育ち上がり、どんな感情をインストールされた人を、自分は仲間にしたいのか」という問いなのですね。(宮台)
・野田さんとは何度も議論し、叱られてきたのですが(笑)、僕には新反動主義者のフラストレーションを理解し、一部共感する部分があります。社会の底が抜けてしまい、今後も感情が劣化して損得マシーンと化した人々が増えることはあれ、減ることはない。そんな人々と一緒に民主政という制度を回し続けることなんて無理なんじゃないかとも思うのです。いっそ少数の価値観を同じくする仲間と理想郷を建設する方が現実的ではないかと。(宮台)
・僕は脱原発論者ですが、吉本隆明の主張の基本線には、全面的に同意します。テクノロジーを拒絶したり、テクノロジーの進展という大きな流れに抗うのは、馬鹿げた営みです。アーミッシュのような生活に満足できるなら別ですが、文明の利器を知り、その便益を享受している僕たちが、今さら先祖返りするというのは、現実的な解ではありません。(宮台)
・「構造的貧困」の話をもう一度思い出してください。…かつて幸福度ナンバー1だったブータンが、世代の更新によるテクノロジー化で、かつての栄光を失った過程に象徴されています。(宮台)
・たとえば『鉄腕アトム』は、「人間よりも人間的なロボット」を世界で初めて描いた漫画です。作者の手塚治虫は、「人間よりも人間的なロボットたち」と「ロボットよりも非人間的な人間たち」という対比を、最初に提起しました。ちなみに、手塚治虫は『火の鳥 未来編』でも、有名な「ロビタのエピソード」において、同じ対比を提起しています。(宮台)
第8章(共同体自治の確立とリーダーの条件)
・ここでの問題設定は、「システム世界への過剰な依存を排して、生活世界(共同体)の再生を図る」ために、僕たちが利用しているテックやシステムをデフォルトとしつつ、仲間意識や「われわれ意識」をもう一度取り戻し、みんなで知恵を出し合ってみんなによいものを選んでいく、というものです。まさに「ルソーが理想としていた民主政の本義を再構築するには、どうするか」が問題設定です。(宮台)
・食いつなぐのに精一杯な人々が多数いる場所では無理です。それは、国全体をどうするかという問題設定が無理である最大の理由でもあります。リソースや条件は地域で違い、できる所とできない所があります。脱原発住民投票で原発立地を退けた日本で唯一のケースである巻町(現・新潟市)で、住民投票を成功させた笹口孝明元町長のhなしをうかがいましたが、巻町が豊かな場所で、「つかみ金に踊らされる貧困層がいなかったこと」がポイントだとのことでした。(宮台)
・では「立派な人」の要件は何でしょうか。それは、利他的、倫理的であることです。人は利己的な人やあさましい人に感染しないということは、実験心理学の研究データからわかっています。ミメーシスは、利他的・倫理的な人のみが惹起することができます。その利他的・倫理的な人も、周囲に利他的・倫理的なロールモデルが存在して、ミメーシスを惹起されてきた経験があるからです。(宮台)
エピローグ(天才・宮台真司の絶望と希望ー野田智義)
・ところが、2020年に始まったコロナ禍のさなか、彼はいま一度、日本社会に希望を抱き始めた。理由は『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の大ヒットだった。煉獄杏寿郎というキャラクターに彼はミメーシス(感染的模倣)を惹起する力を感じ取ったのだ。損得勘定など一切関係なく、義のため、人のために命を捨てる鬼殺隊の柱、その生き様に涙を流し、興行収入記録を塗り替えるまでに映画館に足を運ぶ人々、とりわけ若い世代と子どもたちに大きな期待を寄せている。
あとがき(宮台真司)
・この本は講義録で、僕のこれまでの書物とはトーンが違う。野田さんと一緒に講義を構成し、その提案を積極的に取り入れてきた。だから理論家としての僕からすると、簡潔に言い過ぎたこと、書き足りないことがかなりある。だが、すでに示した講義の目的を優先し、今回は目をつむる。これを機に厳密に理解したい向きは、僕の他の書物を手にとってほしい。
コメント
読みやすい
今までの宮台真司氏の著作のなかでも一番読みやすい。
これは講義録であるのがその理由の一つであろう。これまで宮台真司氏が述べてきたことの背景やプロセス、移り変わりが追って理解できるので非常に頭の中が整理された感覚を得た。
もっとも「あとがき」に記載されているとおり、本書はこれまでの宮台真司氏の書物とはトーンが違うと明確に言っている。
簡潔な部分、下記足りない部分がかなりあるという。
逆に言うとだからこそ本書が非常に読みやすくなっているように感じるのだろう。
文体も宮台真司氏独特のものでなく、平易な柔らかい言い方がなされていることも読みやすさに繋がっているように思う。もっともその独特の文体が好きなのもあるけれど。
ひとかどの人物
これだけ人々が細分化され、コミュニティも崩れ、そして家族すら空洞化した現在において、より良い共同体を構築していくのは至難の業。
そういった状況下において個人レベルでどうすればいいかといえば、ミメーシスを惹起できるようなひとかどの人物に自分自身がなろうとすることであり、そのためにもひとかどの人物に近づいてミメーシスを自分のなかで生じさせるしかない。
ひとかどの人物の基準としては利他性と倫理性が挙げられており、この基準は他人とやり取りする際の判断基準としても機能する。
よくよく観察してみれば基本的に自分のことを考えている人しかいないことに気が付くし、自分が良ければ倫理的でない行動を取ることも厭わない人が多い。
当然ながら自分自身もその傾向あることは重々承知のうえであり、わたしはその意味でまったくひとかどの人物ではない。
だからこそ利他的で倫理的なひとかどの人物が希少なのであり、そういう気質のある人に近づいてミメーシスが起きれば自分にも好影響が生じるはず。
そうしたひとかどの人物との交流を通じて、少しずつ自分も利他性・倫理性を獲得していくしかない。
分裂した社会は幸せかもしれない
知らないということは幸せなことかもしれない。
本書ではドラッグやVRで人々が見たい現実だけを見るようにすることで「幸せ」を設計できるといった議論が出てくるが、確かにそれは一理あると感じた。
現実としてもっと良い世界や物事があると知らなければ比較せずに済むのでストレスを抱えることはない。
より良いものがあると知ってしまうからこそ、それに対する憧憬が生じ、妬みや嫉みが生じて、ストレスが溜まることになる。
そういった状況を回避する手段として分化された社会はありなのかもしれない。互いに知らなければ不満が生じないのだから。
そんな世界は耐えられないように思うが、そもそもそういった状況になっている、すなわち分化された社会であり、もっとより良い充実した暮らしをしている人が存在するという認識自体を持たなければ、不満が生じることはない。
いまは自分がメタ的な立場で分化された社会を外から見ているが、内側に放り込まれて情報が遮断されれば、そんな世界を認識せずに済む。
これは未開発地域に住んでいた人々が、その人達なりに充実感を得て暮らしていたことに近いのかもしれない。
ただ気になるのは、人類のより良い世界・より良いモノを持ちたいといった人類の欲望を燃料にして資本主義社会は走ってきたわけだが、より分化された社会においては人々の欲望は縮小するはず。(少なくとも現状の人々に比べれば。)なぜなら、より良いものを目にしない状況であれば、比較対象がなくなり、それはすなわち、欲望が生じる機会を減らすから。
そうなったときに資本主義社会は存続するのだろうか。それとも別の枠組みが生じるのだろうか。そもそもそのような世界になったら社会経済システムなど関係ないのかもしれないが・・・。
まとめ
前述のとおり講義録であるため非常に読みやすい。宮台真司氏の著作を読んだことがない人でもとっつきやすく、そのうえ氏のあらかたの思考の方向性や考え方を学ぶことができるので、宮台真司氏入門として非常にオススメできる。
また個人や家族、社会や共同体の再建(そもそも再建する必要があるかも含めて)に興味がある人にも薦められる。
SFの世界のような話がテクノロジーの進展によって本当に現実のものになっているということを知るためにも本書は最適だと感じる。
本書の英語版も出版することが計画されているようなので、英語版が出たらそれも買って勉強してみたいところ。
一言学び
「立派な人」の要件は利他的、倫理的であること。
コメント