出世が閉ざされたとき

日々の生活

『夜と霧』

『夜と霧』で有名なヴィクトール・E・フランクルは、収容所という絶望的な状況下においても希望を捨てずに人間性を失うことはなかった。

将来への希望が限りなく見えない状況下においても、それを見つけようとし、一縷の望みを託しながら過ごせるか。

ここまで極限的な状況に陥ることはそうそうないと思われるが、希望なき状況に直面したときの振る舞いという観点では結構身近に感じられる。

出世がなくなったとき

卑近な例ではあるが、最近会社で出世する見込みがなくなったとき、果たして自分はそれに正面から向き合い、真摯に受け止めることができるのか、という自問自答をしている。

いまの会社はそこまで出世競争が激しいというわけではないが、いずれかのタイミングでその結果は誰の目に見ても明らかになる日が来る。

同期に先を越されたり、後輩に先に出世されたり。こんなことは外資系であれば当然だし、日本企業でも最近は年功序列型の仕組みも徐々に薄れてきているだろうから、そこでも当然なのかもしれない。

しかし、まだまだ年功序列色の強い会社においては、結構インパクトのある出来事だ。(そのルール枠では、だが)

出世街道から外れた社員が拗ねて、やる気もなくなりお荷物になるという話はよく聞くが、実際に自分がその立場になったときモチベーションを保てるかといわれると、意外とすぐに答えられない。

どうせ昇進も見込めないなら、それなりの仕事でいいや、と投げやりな態度になってしまうのではという疑念が付き纏う。

こうなってしまっては組織にとっては邪魔な社員であるし、個人としても会社での居心地が悪くなるので、どちらにとっても良くない。

しかし、近未来的にそうなる可能性があるというのも厳然たる事実だ。

果たしてそうなったときどう対処すればいいのか。当然、今からより頑張って仕事をこなし、昇進できるように精進する、というのが正当なアプローチかもしれないが、出世ばかりは自分の努力でどうにかなる問題でもない。自分でコントロールできないことに振り回されるのは精神衛生上、避けるべきだろう。

人生の複線化

そうであれば藤原和博氏が提唱するような形で「人生を複線化」することでリスクヘッジを取る形だろうか。仕事一筋ではなく、別のコミュニティにも所属し、そこで一定の役割を果たし、アイデンティティの一部を形成する。

一見仕事からの逃げのような気もするが、会社内で最終的に勝てる人が一握りであることを考慮すれば、合理的な戦略であるように感じる。

趣味も特にない自分にとってはハードルが高いが、何かそういったコミュニティを見つけられるように日頃から新しいことに目を向け、メンタルブロックを排除して飛び込んでいく練習をする必要がありそうだ。

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