読みたいと思ったきっかけ
久しぶりに宮台真司氏の著作を購入。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
まえがき | : | 近田春夫 |
序章 | : | 「切り付け事件」とは何だったのか |
第1章 | : | 「独裁者になったら……」幼少期〜小学校時代 |
第2章 | : | 「革命家を志す以上、勉強に時間を割くわけにはいかない」中学・高校時代 |
第3章 | : | アングラ卒業、性愛の享楽 大学生時代 |
第4章 | : | 研究、ナンパ、学生企業 大学院生時代 |
第5章 | : | 「新進気鋭の社会学者」誕生 助手〜非常勤講師時代 |
第6章 | : | 求道者としてのテレクラ修行 ナンパ師時代 |
第7章 | : | 援助交際ブームとは何だったのか 援交フィールドワーク時代 |
第8章 | : | 「終わりなき日常は地獄である」メディアの寵児に |
終章 | : | 聖なる存在 結婚、子ども、家族 |
あとがき | : | 宮台真司 |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
まえがき(近田春夫)
※特になし
序章(「切り付け事件」とは何だったのか)
※以下すべて宮台真司氏の発言
■何の躊躇もないのが、僕にとって救いでした。「大変言いにくいことなんですが……」なんて前置きをされると、かえって心理的なダメージが大きくなります。本当に優秀な先生って、こんなふうに「敢えて軽い」んだなって感心しました。
■言い方によって、相手の受け止め方は変わりますよね。大事なのは、親身になることと、深刻おることとは、違うんだってこと。中島先生の軽さは、暗い側面より、明るい側面に目を向けさせてくれます。ものすごく力を与えてくれました。
■達観よりも覚悟だと思います。極道の妻みたいにね。僕が事件に衝撃を受けていなことや怒りや憎しみを抱かないことにも、僕のイエス仰を知っている妻は、驚きません。妻も仰者だから、過剰な衝撃を受けないし、怒りや憎しみから自由なんです。
■コンテンツの影響は、誰かと一緒に見たり、見た後に誰かと話したりすると、緩和されます。親しい誰かであるほど緩和されます。理由を一口で言えば、コンテンツのどこに注目するかが、人間関係の履歴に依存した世界観の変化に左右されるからです。
■最近の若い人たちは、ダイジェストされたコンテンツを見ただけで、全体像を捉えたと思い込みがちです。例えば、ひろゆきなり成田悠輔なり宮台真司なりの発言が切り取られた動画を見て、それがその人物の全体像だと借じ込むのが典型です。
第1章(「独裁者になったら……」幼少期〜小学校時代)
■母日く「自分を盛らないパパは疲れない相手なの。理由を考えて男性性と女性性の問題だと思った。自分はスゲエっていう自意識で盛るのが男性性。感情を自然に口にできるのが女性性。月経周期が正確だったから3月3日に出産する計画で妊娠した。自分以外のきょうだいが男だから男が生まれると分かってた。だから女性性が強い男を生むことに決めたんだよ」
第2章(「革命家を志す以上、勉強に時間を割くわけにはいかない」中学・高校時代)
■宗教2世から離脱して京大で左翼革命に心酔した青年には、本来心はない。でも大規模に存在する心は、世直しにつながる巨大リソース。最終的に青年は借心があるのかないのか未規定な状態になる。宗教的に振る舞う者の動機が宗教的とは限らず、世俗的に振る舞う者の動機が世俗的とは限らない。宗数というものへの深い興味を目覚めさせられました。
■「風流」も「好事家」も、頭が良くて勉強すれば上昇できる営みと違い、ブルデューの言う文化資本に恵まれない者には難しい。むろんそれに恵まれているのは本人の達成ではない。だからこそ「誰も付いてこられない営み」によって斜めに上昇できる。単なる上昇志向に過ぎない「教養主義」を、田舎者の営みとして嗤う「卓越主義」の本質でした。
■映像ドキュメンタリー作家になり、作品で世直ししようと思いました。戦間期の欧州マルクス主義者グラムシの影響です。日く、辺境のロシアで革命が起きても、資本主義が発達した欧州では起きないのはなぜか。深刻な階級格差があれ曲がりなりにも喰える以上、「人は不確かな理想の未来より、問題があっても確実な現在を望むからだ」。ちなみに飯田譲治総監督「NIGHT HEAD(1992〜93年)にも出てくる台詞です。
■国語こそパターン認識が有効です。他の人は文章の内容を読んじゃう。僕は形式に集中して瞬時に型を判断します。大方の出題文はギリシャ時代に確立した修辞法(レトリック)から喩・例示・反復・等置・反語・反照を使う。出題文を目にしたら直ちに修辞関係を記号化して「=」「→」「」「<」「#」などと記す。それで全国1位になれました。
■特に映画批評に有効です。たいていの映画批評家は内容に飲まれるけど、映画の修辞、つまり構図=空間性や、モンタージュ=時間性は、ヴァリエーションが少なく、不自由なパターンの組み合わせだから、一瞬で型が分かる反復芸術。浄瑠璃や歌舞伎を含めて芝居も同じです。ただ、クラシック演奏と同じで、魂が宿る「いい反復」と、宿らない「悪い反復」があるだけ。
■ベンヤミン的には、添削子は「シンボルよりアレゴリーだ」と言っていたことになる。シンボルは「書かれたこと」を理解する営み。アレゴリーは「世界は確かにそうなっている」と震える営みで、ベンヤミンは「砕け散った瓦礫に一瞬の星座が浮かぶこと」と言う。シンボル(瓦礫)じゃなくアレゴリー(天の星座)が、僕の実存批評の中核的な目標です。
第3章(アングラ卒業、性愛の享楽 大学生時代)
■どの集団から鍋パーティに誘われたかで、宗教集団や思想集団への所属が決まる。これは弱みにつけ込んだ卑怯な方法で、許せません。でも、よくあることです。93年に国会議員になった、「ノンポリ(思想的無色)」で「ぼっち」だったと周囲が証言する安倍量三が、短期で極右政治家になったのも同じ。日本の多くの「思想家」がこうして生まれるのです。
■実際、ルカーチ、グラムシ、ルクセンブルクら、戦間期の欧州マルクス主義者の影響を受けています。前述したように欧州マルクス主義者は共通に、資本主義化した欧州じゃなく、資本主義未然のロシアで革命が起きた理由を問題にし、「人は、不確実な理想の未来より、たとえ問題はあれ、曲がりなりにも喰えている現在に固執する。それをどうするか」と語ります。
■僕は、計画に従って現在を犠牲にする生き方が、嫌いです。そろそろ受験だからデートは控えようとか、今は恋人より就職を優先しようという考えには、反吐が出ます。中3の時に空手部の親友が自殺したり、高校の時に一緒に遊んできた2歳下の従姉妹が事故死して、人はいつ死ぬか分からないという一貫した思いを抱くようになったことがあります。
第4章(研究、ナンパ、学生企業 大学院生時代)
■ただし、そうした劣等感が人の何倍も勉強する生活につながりました。だから、傍から見れば、院生としての充実した生活を送っているように見えたでしょう。院の1学年上に大潮真幸氏という異友を得て、院生室や、図書館ロビーや、食堂で、いつも議論していました。ゼミはつまらなかったけど、それが楽しくて仕方なかった。
■それを書いてから30年弱。状況は悪化した。成功してもつまらない事実を見ようとせず、成功してもつまらない理由を考えなかったからです。成功してもつまらない理由は何か。『終わりなき日常を生きろ』に書いた。羨ましがられたり妬まれたりするだけで、祝福してくれる者がいないから。せいぜい母親が祝福してくれれば御の字。
第5章(「新進気鋭の社会学者」誕生 助手〜非常勤講師時代)
■ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが言うように、何をすることが上司の指示の実現になるのかを、部下が創意工夫できるので、上司が想像もしなかった「指示の実現」があり得ることになります。それが近代組織のハイ・パフォーマンスを支えます。逆に言えば、細目まで指示するような上司は、権力を通じた情報創発性に無知な単なる頓馬だということです。
■90年代初頭からの流れです。一般教育が不十分なまま、いきなり専門教育に踏み込むので、「全体性を弁えるがゆえの倫理観」を欠いた、学会でのポジション取りだけを考えるクズが最産されます。先進各国はどこでもキャリア官僚が博士号を複数持つのが珍しくないけど、日本の行政官僚はほとんどが学部卒で低学歴なのも、一般教育から専門教育へという流れを踏まえないからです。
第6章(求道者としてのテレクラ修行 ナンパ師時代)
■85年からの2年間に見るように、ナンパ師の営みの流れはバックパッカーに似ます。80年代半ばから沢木耕太郎「深夜特急」(1986、92年)の影響で拡がった第三世界への貧乏旅行です。トラブルに遭って、世界を知り、自分の限界を知り、自分の枠組を壊して成長する。それが目的でした。でも旅慣れてくると、驚きがなくなり、成長もなくなり、つまらなくなります。
第7章(援助交際ブームとは何だったのか 援交フィールドワーク時代)
■若松孝二監督は中2から僕の神様です。AVの代々木忠監督と同じく元ヤクザ。法と法外の関係に敏感で「仲間や恋人を守るために法を破る営み」を愛でました。監督は何かにつけ自宅に招いてくれ、僕の方は映画にも出演し、「朝日新聞」に追悼文も書いた。人脈は赤軍派に連なるけど、本質は「法より掟」「意気に感じる」という戦前右翼的な主意主義。それを継ぐのが白石和彌監督です。
■次に、僕の議論に同意しても、「朝生」で噴出した「売春は道徳的な悪だ」とする議論がある。近代法の原則は「法と道徳の分離」。近代社会は複雑だから、道徳は、所属共同体次第で違ってよく、法は、自己と他者の人権両立を脅かす自由や全体社会の共有財を壊す自由だけ制約することを、最低限踏まえるべきです。
■日本は、残念ながら失敗した。「クズ=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」が不安ベース・不ベースなのに対し、クズは横に置いて幸せベース・信頼ベースで生きようよと、30年前から呼びかけました。誤算は、幸せベース・借頼ベースで生きる者が「見える化」した途端、クズの妬みと嫉みを買うという日本の劣化ぶりを、軽く見ていたこと。今のX界隈を見れば分かるでしょう。
第8章(「終わりなき日常は地獄である」メディアの寵児に)
■社会学者パーソンズと、その影響を受けた社会哲学者ハーバーマスは、感情的安全が保障されたホームベース(生活世界)が空洞化すると、感情的回復が不完全になり、バトルフィールド(システム世界)での戦いに力が出なくなる=尊厳を失うとします。僕は、それが、米国の半分以下という日本の低生産性(一人当たりGDP)の理由の一つだと睨んでいます。
■要は、孤独だと力を失うということ。僕の幼少期 (60年代)、男は1日3000キロカロリーを摂取、農閑期の出稼ぎ労働者や高卒の金の卵(集団就職)が建設現場や工場で長時間重労働しました。極度につらくても、心を病む者や燃え尽き症候群はわずかでした。「自動車絶望工場」(73年)の鎌田慧氏は僕に「仕送りする故郷の家族とタコ部屋の仲間がいたからだ」と答えました。
■同時期の凶悪犯罪件数は今よりずっと多かったですが、先日亡くなった法社会学者の河合幹雄氏が僕に日く、「治安が悪かったからでも人が殺伐としていたからでもない。逆に紐帯が強かったからだ。絆ゆえに期待水準が高いと、期待外れの衝撃も大きい。愛が深いと、憎しみも深い」。紐帯の病たる統合失調が今より多く、孤独の病たる鬱が少なかった時代です。
■近代では法と道徳は違う。法は社会のもの。道徳は共同体のもの。社会は複雑。数多の共同体を含む。共同体は一界隈に過ぎない。共同体のローカルな道徳を法化してはダメ。どこかの界隈が萌え絵や水着撮影会を叩くのは勝手。でもそれを法化したがるのは近代の法原則を弁えない頓馬。今だとクソフェミ界隈に見られる奥井的言説は、これにて粉砕完了。
■①何事につけ期待水準を低く設定し、期待外れに免疫を作る。②何事につけ期待水準を高く設定し、期待外れに規範的に臨む(許せない云々)。③何事につけ情報感度を研ぎ澄まし、期待外れが起きないようにする。④期待外れが起きそうな領域から撤退する。⑤情報感度が優れた友人(③)に金魚のフンのようにくっついて模倣する。論理的にはこの五つしかありません。
■間違いありません。「マイクを持つ手が震えてるぞ」「そっちこそ声が震えてるぜ」。懐かしいです。僕が馴染んだ作法に彼も馴染んでいました。アメリカで講演旅行した際もテキサスの大学院生女子と「平然と怒鳴り合い」、その後はニコニコと会食しました。そう。「平然と怒鳴り合う」ことで感情の働きを探るのが国際標準で、それができないのは「育ちが悪い」ヘタレです。
■そうです。劣等性への処方は四つ。(1)空気を読めないより読めるのがいい。(2)空気を読めたとしても敢えて読まない選択肢を採れるのがいい。(3)空気を読む場合にも敢えて迎合(2気次第で行動決定)しない選択肢を採れるのがいい。(4)空気に迎合する場合にも縛られずに触的に応答する選択肢を採れるのがいい。これらすべてで、昨今の若い人が劣化しています。
■応用すると、(1)空気を読む能力が乏しい人、(2)空気を敢えて読まない営みができない人、(3) 空気に敢えて迎合しない営みができない人、(4)空気に戦略的に応答できず受動的に縛られる人は、①先ほどの国際標準の営みができず、②年長世代が多く集まる集会で「表に出ろ!」「待ってたぜ!」の類の応酬を見て「平和に、穏便に」とホザき、トーン・ポリッシング(語調狩り)に乗り出す。
■人格類型論に戻ると、国家共同体や会社共同体が潰えた日本では、「自分は東大生だ」みたいにプライドを頼ると不安を免れず、自己情頼を得て初めて安定します。期待外れが生じがちな対人領域から退却するネクラ、カッコよさげな者の金魚のフンになるヨリカカリ、万事期待しない諦め癖のニヒリストは、試行錯誤をしないぶん、自己信頼が不全で、そばにいても「力」をもらえません。
■それを自覚するのは表現者にとって良くないのでは?と言われることがあります。でも僕自身、精神分析を独学で激しく学び、自分の無意識に刻まれた二項図式群を取り出し、そのどれが読者たちの無意識にシンクロするかを考え抜いて執筆するようになってから、読者が相当増えました。表現者が無意識の二項図式を自覚するのは良いことだと思う。なぜなら、すべては型だからです。
■信教の自由は三十年戦争を手打ちしたウェストファリア条約(1648年)に由来。キリスト教の新教と旧教を念頭に置いて、諸候が諸宗派を自由に選べるとしたものですが、当初から矛盾が意識されていました。宗教を自由に選べるなら、社会は宗教より論理的に大きい。でも宗教が社会より大きくないと、宗教として機能しない。法が許さなくても神(宗教法=掟)が許す所以です。
■必要な前提的教養を持っていれば16の立場に分岐するなどあり得ません。どんな重要問題でも論じる視座は五つに収まります。5人ならば1人の持ち時間は48分。高校や大学の授業を考えても、それくらいの持ち時間がなければ十全に立論できません。結局、頭が悪い「自称知識人」が、「やってる感」的に愚論を展開するつまらない場になりました。
■ラジオだと1時間一人で喋り続けても、内容(主題の掘り下げ)と形式(構成と話し方)次第ではリスナーが飽きずに聴く。僕は35年の教員生活で一度の例外を除くとノートやメモを見たことがな内容の要素と構成を暗記し、聴衆の学生らの反応を見ながら要素と構成を調整します。それがラジオに役立った。通念を外せばテレビも同じですよ。
■山住学長曰く「僕は必ずしも宮台君の意見に賛同しないが、言葉遣いへの抗議なんかは口実で、気に入らない見解を語る宮台君の政治的封殺が真の目的だというのが、森岡先生と一致した結論。だから、自由な言論の府の執行部として、政治的なトーン・ポリシングから君を守った」。今のどんな大学にもこんな見識に満ちた執行部はないでしょう。
終章(聖なる存在 結婚、子ども、家族)
■それが彼の哲学を作ります。有名な『我と汝』(1923年)。「置換不能な汝」と「置換可能なソレ」を区別します。相手を汝として見るとは、取り替えられない存在と捉えること。でも人は時に相手を取り替え可能な存在と捉えます。相手を道具として見る時です。金槌は他の金槌と置換可能です。人は道具として見られた時、置換可能なソレになったと感じます。
■実数空間と虚数空間からなる複素数空間。人が生きるのは、現実と夢の掛け合わせからなる複素数空間。現実に夢を重ねられるだけでも幸いです。
■麻布の同窓会で四半世紀ぶりに会うと、年齢相応の40代に見える級友と30代にしか見えない級友がいるのも思い出しました。そこでアンチェイジング仮説を立てました。「人は諦めた数ほど加齢する。諦めなければ加齢しない」。
■はい。「クリスチャンというものは然々だ」「年若い女というものは然々だ」「男というものは然々だ」という具合に、カテゴリーにステレオタイプを結び付けてテンプレ的に反応する。これを僕は「クズ」と呼びます。自分の品性のなさや、今まで付き合ってきた人々の品性のなさを、一般化し投射するもので、経験の貧しさがなければあり得ません。
■計画というほどかっちりしたものではなかったけど、3人がいいと思っていました。社会学者ジンメルによると社会は3人関係から始まるからです。「自分以外の皆は互いに……しているのでは」という想像的契機を伴うのは3人関係から。妻にはそんな説明をしたら、「私は4人きょうだいだから、言ってる意味が分かるよ」と同意してくれました。
■「聖」を非日常や高揚感として定義する論者はいますが、それだとライブやクラブでの踊りまくりもLSDのようなドラッグ体験も「聖」に含まれ、僕らの生活形式で「聖」と呼ばれるものをはみ出します。僕は「聖」を力が湧き出す時空、「俗」を力が使われて減る時空だと定義します。この定義は先ほどの立ち会い出産体験に由来するものです。
■年齢・性別・家業のカテゴリーを越えてフュージョンする外遊びの経験、ヨソんちで飯や風呂をいただいて友達親や親戚の大人と交流した経験、近所のお兄ちゃんお姉ちゃんに無償で世話してもらった経験が僕を作りました。その頃を思い出すと、感情的体験の豊かさが今とは違いすぎ、映画を観ている気分。子どもたちにそんな体験を与えたい。それだけが本当の「育ちの良さ」です。
■ちなみにルーマンの影響を受けた山岸俊男は、何があっても大丈夫という構えを「信頼」、何も起こらないとする構えを「安心」と呼びました。昭和から平成・令和への展開で、大舟に乗る信頼社会=地域社会が、些細なことに神経質な安心社会=会社社会(地域空洞社会)に変じたのです。地域社会から地域空洞社会への変化が「郊外化 suburbanization」です。
■はい。繰り返すと、失われたものを嘆く「ノスタルジー」は簡単ですが、失われたものの機能的等価物を考える「等価機能主義」は、実証を超えた洞察を必要とするので経験値が低い者には難しい。機能的等価物を社会に実装する営みはなおさら難しい。そこに、祭り好きやナンパ師やフィールドワーカーとしての全国めぐりの経験が役立つはずだと思いました。
■ちなみに、ゼミ生に語ってきた理論を紹介します。豊かな社会では快楽は多様。だから快楽では連帯できない。他方で不快は多様性が低い。だから不供なやつを吊せとの号令で簡単に連帯できる。でもよく見ると不快回避は焦点じゃなく、不快なやつを集合的に粉砕する快楽が焦点になっている。だから不快(不道徳や不正義)は集合的粉砕のネタに過ぎない。
■それは、言葉と法と損得で規定可能な有限の社会への閉ざされから、言外と法外と損得外の規定不能な無限の(世界)への開かれに、我々を連れ出します。拙著『<世界>はそもそもデタラメである』(2008年)の題名はそこに由来します。繰り返すとそれは抗えない論理です。全能感の刈り取り(去勢)に苦しむ思春期の反抗期前に、その論理に触れさせるんです。
あとがき(宮台真司)
※特になし
コメント
「あとがき」に記載のあるように、「本書は、1960年代の幼少期から2006年頃(40代半ば)に結婚するまでの自伝」となっている。
宮台真司氏のバックグラウンドを知るうえで貴重な書籍となっている。
本書を読んでの一番の感想は、「やはり宮台真司は天才だ」というもの。
あらゆるジャンルに対応可能なレオナルド・ダ・ヴィンチ的な万能の天才さを有している。
そういった天才がどう育まれたかを垣間見ることができる。
「クズ=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」やミメーシスの話など、これまでの書籍でも触れられてきたものの背景が見えてくる。
「感情的体験の豊かさが今とは違いすぎ」という部分は、本書を読んでいると強く感じる。
人間的な魅力、オーラがどうやって形成されるのか。
一朝一夕には身に付かない、人生トータルでの結果で表れるからこそその形成は難しいが、そのヒントが書かれているように思う。
自分自身は割とクズだと思うし、それを今さら変えるのは厳しいだろう。残念ながら。
ただ、それを認識したうえで、なるべくクズではない行為態度を志向する。損得に引っ張られずに、自らの価値観で責任を持ちながら判断する。その機会を増やす。
小さな試行錯誤を繰り返しながら、少しでもクズからの脱却を図るしかない。
生き方の指南書として二度三度と読み直したいと思う。
一言学び
僕は、計画に従って現在を犠牲にする生き方が、嫌いです。そろそろ受験だからデートは控えようとか、今は恋人より就職を優先しようという考えには、反吐が出ます。
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