この年、初めてセンター試験を受験した。
なぜセンターを2浪目で初めて受験することにしたのかは記憶にない。
センター利用を使うことも全く考えていなかったので、試験慣れという意味合いが強かったと思う。
特にセンター利用の出願もないので、自己採点もきちんとしていなかったと思う。
そして2月になり、いよいよ3度目の受験が始まった。
神田外語とICUを受験した。
どちらも英語については割と出来たという感覚があったが、これまで1度も大学に合格したことのない私は、自分の感覚を信じられなかった。
その後、成城の文芸学部、慶應の文学部、青山の国際政治経済学部、慶應のSFCと受験をし、なんとか大学生になる権利を得られた。
合格したときの嬉しさはこの上ないものだったが、嬉しさより安堵感の方が強かった。
両親に掛けた迷惑を考えると何となく手放しで喜べない気もしていた。
結局自分の合格は、現役のときに勉強していた英語の貯金を無理くり活かした受験戦略による運任せによるものだったといえる。
英語ができる(厳密に言えば読める)ことで得られる大学受験でのアドバンテージの大きさに助けられたということだと思う。
もっとも現役時や1浪目に、英語を活かした受験戦略を考えていれば、もしかしたら、もう少し早く大学生になれていたかもしれない。
能力だけでなく、それをどこで運用・活用するかの重要性、というと大げさだが、そういったことを2浪目まで考えられなかったから2浪してしまったわけだが。
後になって振り返ってみると「まだ勉強できたな」と思うが、そんなことは絶対にない。実質3回失敗した自分は結局出来ていなかったのだから。
根拠のない自信・自尊心・プライドは役立たないものだと、受験が終わった直後、冷静に考えたときに思った。
とはいうものの、大学以降も同様の思考に囚われ続けているので、ある程度年齢がいくまで、この考えから逃れられないのかもしれない。
2浪した自分が受験生に出来るアドバイスとしたら「英語を読めるようになれ」という誰でもわかるものになってしまう。
今は4技能試験などもあるので、読みだけでは足りないかもしれないが、大学受験という枠組みでは兎にも角にも読めることが必須なことは変わらないと思う。
今はあまり評判が芳しくないであろう古典的な英文解釈の勉強を高校1年・2年で実施したことが、後々まで活きるとは思わなかった。
こうして回顧すると、なんでこうしなかったのだろう、ということばかりで驚く。
そのとき、そのときでは最良の選択をしてきたつもりだったが、結局後から見れば筋の悪い選択であることが多い。
そのときの感覚・価値観でモノを見ることは一生ないので、そういうものと割り切るしかないかもしれない。
もし受験に失敗したとしても、こんないい加減な勉強でも受かった人もいるという事実は、少しでも受験生の希望になるのだろうか。
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