日々の生活

仕事

本気を出すということ

「明日から本気出す」「まだ本気出していないだけ」 何かしらうまくいかないことが起きたとき、口に出さないまでもこのような言葉がついつい言い訳のように頭に浮かぶ。 「本気になれば自分だってあれくらいできる」という言葉は、実際にでき...
日々の生活

2人目はより大変だ

現在我が家は2人の子どもとともに生活している。 最初はなんとかなるかと思っていたが、想像以上に精神的にも肉体的にも疲れる。 肉体的な面でいえば、夜中に泣くのでそれで睡眠時間が削られ、常に寝不足気味になってしまう。 これが意外とボディーブローのように効いてきて、頭も回らなくなるし、イライラもしやすくなる。(そう考えると精神的な影響もあるか) これに加えて自分の時間を持てないのが精神的に辛いところ。 自分でいえば読書したり、勉強したりといった時間を作ることができていないことが結構ストレスとなってくる。 自分は通勤電車の行き帰りで一応1人になる時間はあるが、妻のほうはずっと家にいるので、もっと時間が取れていないことを考えると、甘いこと言うなという話かもしれないが。 自分が子どものときに親(この場合はほとんど母親だが)が、こういった状況下(わたしも兄弟がいる)で子育てしていたと思うと、今更ながら驚くし、若干尊敬してしまう。 ネット通販も普及していないし、ワンオペ育児も当然の状況下で子育てしていたことは今では想像できない。 子どもを持つのは自分の意志による部分もあるので、そういった大変さは当然受け入れるべきところであるので、あまり文句を言うのも筋違いなのかもしれないが・・・。
Apple製品

買ったものを大事に使いたい(最初だけ)

これはどのモノを買ってもそうなる。 高い洋服を買ったときも、最初は着るのが怖い。汚れたらどうしよう、破れたらどうしよう。そんなことばかり考えている。 しかしながら、これも時間が経つにつれてガシガシ着ていけるようになる。 高い眼鏡を買ったときも、最初はレンズを拭くのですら細心の注意を払う。少しでもレンズに傷がついたらと心配になる。 けれどしばらくするとそんなことも考えなくなる。 結局は、何を買っても最初だけ大事に大事にしようとするという話。 そうであれば買ったときに神経質にキレイに使おうとすることすら無駄に思える。 といっても買ったときはわかっていてもそうはならないのだけど・・・。
日々の生活

ゆっくりと時間を過ごすことが難しい時代(ファスト社会、インスタント社会)

読書しているときは若干ゆっくりと過ごしている感覚を覚えるが、その読書にしても常に新しい本を絶えず読まねばという強迫観念を抱いている。これは多分に不安感が原因となっている。 こういったことを思ったこともあり、最近はボーッとする時間を意識的に設けるようにしている。 何も考えずに時間が流れているという感覚を味わう。 「その時間があれば何か情報を仕入れられる」という考えが頭に湧いてくるが、それを抑えてボーッとしている。 自分がボーッとすることができているのは「脳科学的にもボーッとすることが有用」といったことを茂木健一郎氏が述べていたのもある。ボーッとすると脳の記憶の整理が進むらしい。 記憶の整理という利点があるに越したことはないが、いずれにしてもボーッとしているときは時間がゆっくりと流れを感じられる。ただの気のせいかもしれないが。 この習慣を少し続けていきたい。
仕事

今年も残り4ヶ月となりまして(意図的なアクションを)

言うは易く行うは難し。 どんだけ頭のなかで考えていても、何かしらの行動をしないと何かが変わるわけでもないので、アクションすることにもっとフォーカスしたいところ。それも意図を持った。 そうしないとただ考えなき行動のみになって、今と変わらず振り返ってみたら何もしていなかったという状況に変化は起きない。 2022年が終わるという、その後ろ姿が見えたことで、少し危機感に近しい感情が出てきた。
日々の生活

小さな後悔(ポイントカードの出し忘れ、宅配日の間違いなど)

また回答についても、本当にその回答をして後々に後悔しないかを検討したうえで回答すれば解決するように思う。 とはいってもそれが自分にとっては極めて難しいのであるけれど。 こういう思考方法というか、考え方は癖のようなものなので、まずはそういった癖があると認識することが第一歩のように思う。 その意味では認識しているだけ良いとも言える。あとは少しずつ気づいたときから改善に向けてアクションしていけばいい、はず。 果たして小さな後悔がなくなる日は来るのだろうか。
日々の生活

体力が落ちている(コロナ療養期間のあと)

ある程度外にも出て歩いたこともあって、今はほとんどコロナ罹患前と同じような身体の感覚であるので、回復したということかもしれない。 駅までの歩行、駅やオフィスの階段の上り下りなど、こうした何気ない運動がなくなるだけで体力低下につながり得る。 本当は日常的にジムに行ったり、走ったりしたほうがいいのだろうけど、その習慣化は自分には無理そうなので、まずは通勤レベル運動を維持していこうと思う。 もっとも維持するも何も仕事なので、自分の意思とはあまり関係ないけれど。 それにしても通勤レベルの運動でも地味に重要であることを再認識するきっかけになった。
日々の生活

小説を読まなければならない

古典的な作品でいえば、それこそ夏目漱石や森鴎外、海外作品でいえばドストエフスキーの諸作品などあり過ぎて選べない。 そもそも現代小説の方が良いとなると、村上春樹の作品を読んだことがないので、そこから始めるべきか・・・。 読むにもある程度時間が掛かるからこそ、小説は時間のある大学生のうちに読んでおくべきだと強く後悔している。今更言っても仕方ないが。 さてどの作家のどの作品にしよう。
日々の生活

教材を絞るには(教材がありすぎる問題)

収集癖というのは意外と治すのが難しい・・・。 基本的には①使い切れない教材は買わないこと、②使わない参考書類は捨てること。この2点さえ守れれば教材を絞れるはず。 まあ今月も新しい参考書を買ってしまっているうえに、参考書は捨てられていないので、早くもこの原則が守れていないのだけれど。 とはいえ教材へのアプローチについては上記原則に基づいて対処していこう。 教材は買うこともセーブしつつ、少しずつでも要らない参考書を捨てる。 この活動を地道に続けていくしかない。
日々の生活

新聞を読まなくなったけれど(新聞を読まなければというプレッシャー)

「社会人になったら新聞くらい読んでいないと」「新聞を読むことは社会人の常識」といった話を耳にするが、実際に新聞を5−6年は読んでいないけど、特に困ったことはない。 たまに上司や先輩から「今日の日経新聞の記事見た?」「今日の日経新聞に載ってたけど・・・」といった話が出てくるが、お茶を濁して何とかなっている。(読んでいないことがバレているかもしれないが) こうやって新聞を読むインセンティブが強く働くわけでもない状況下において、必然的に新聞を読まなくなっていったわけであるが、どこかで引っ掛かっているのも事実ではある。 「読まないといけない」という強迫観念に近い言葉が頭の中にずっとあり、誰に対してかわからない後ろめたさがある。 このタイミングで、新聞への向き合い方を再度考えてもいいのかもしれない。
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