考えることと決定のはざまにあるものは

仕事

ちゃんと考えてから決定しろ。

大人になってからというわけでもなく、子どもの頃から考えてから決めるように常に言われてきたように思う。

決めたときはそんなことはないのだが、後から振り返ってみると、確かに考えが足りないと感じるときも多い。

ただ、実際に決定したり、行動したりする直前の段階では十分に考えている「つもり」になっている。

「つもり」と書いたが、この「つもり」も結局は後から考えた時に「考えていた『つもり』だった」と思うわけであって、その瞬間瞬間は考えている「つもり」になっているつもりはない。

何かを決定するとき、常に何かしらの理由をもってその判断に至っている(はず)。

もちろん日常のすべての決定に意識的に理由を付して決断・行動をしているわけではないが、曲がりなりにもその時その時で最適と思う理由を考え、それに基づいて決断・行動に至っているはずだ。

それでも結果的に考えが足りていないと後から思うことは、その理由付けの論拠が薄かったり、何か考慮すべきことを見落としていたりするのが原因なのだろう。

些細な決定をともかく、重要だと思う決定をする際にはその時の決断に至る理由を記録として残しておくことが必要なのかもしれない。

そうすれば後から振り返ったときに決断の理由をトレースできるし、また決断する際にも言語化を行うことで理由を整理したり、重要な視点の見落としを防ぐことにもつながる。

このプロセスを踏むこと自体は言われてみれば当然なのだが、実行は意外と難しそう。

面倒くさいという感情によってその行動を実行に移すのが難しいのがその理由だ。

ずっと決断を何となくで実施してきているのは、結局この「面倒くさい=グズ」という感情に囚われてしまうから。

そう思うとグズを直すことが、考えると決定の間を強固に結ぶための必要条件なのかもしれない。

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