読書レビュー:『楠木建の頭の中 仕事と生活についての雑記』(楠木建)

読書

読みたいと思ったきっかけ

楠木建氏にハマっており、著者買い。

かなりボリュームがあるのに、これが2冊出ているという事実。

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楠木建の頭の中 仕事と生活についての雑記 [ 楠木 建 ]
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内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに    
第1部 生活編
第2部 仕事編
第3部 社会編

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

はじめに

※特になし

第1部(生活編)

■そこで強調しているのは、「死から逆算して考える」ことの重要性です。人間は死を意識したときに、はじめて人生で本当に大切なものに気づかされる。人生で最後に残る大切なものは何かーー大江さんの結論は記憶です。お亡くなりになる直前までお書きになっていた雑誌連載の未完成稿にある絶筆となった言葉も「結局、人生の最後に残るのはお金ではなく、思い出しかないんだな」でした。僕は大江さんよりも10歳以上若いのですが、この歳になるとつくづくこの結論に共感します。人間にとって最大にして最高の資産は記憶。お金は記憶という資産を手に入れ、少しずつ積み重ねていくための手段に過ぎない。

■娘が独立して家を出ていったこともあって、小さな古いマンションを借りています。利便性が良い立地にもかかわらず緑が多く、”気”がいい空間です。プレーンなデザインで機能的。必要最小限のものだけを置いて暮らしています。センスがいい友人が長年住んでいるのが決め手になりました。”物件選び”より”人選び”ですね。

■莫大な収入を得ても「人間というのは骨を折りながらやっと生きていくものだ。こういう不自然な生き方が許されるのか」と自問自答する。人気にもカネにもがつがつしない。小さな仕事でも真面目に取り組み、精一杯個性を出す。誰に対しても威張らず、それでいて堂々としている。人間的なセンスが抜群。クールでスマート。何をやっても品がある。最高にカッコイイ代表的日本人だ。(評者註:植木等)

■高峰さんについて知っていくうちに僕は、彼女が何をしたかではなく、何をしなかったかをよく見るようになりました。彼女が絶対にしなかったことを知れば、生きていく指針としてほとんど完全なものを手に入れられると思っています。

■高峰さんは人から「趣味がいいですね」と言われるたびにこう答えています。「いいかどうかはわからないけど、あるね、趣味は」。つまり、スタイルというものはあるか・ないかの問題であり、その一つひとつに自分自身によるきっぱりとした選択がある。決して二兎を追わない高峰さんの生き方は、僕の仕事である競争戦略の考え方にも強い影響を与えています。

■ただし、です。特異な資質と経歴の人なので、彼女の生き方にはまったく再現性がありません。誰も高峰秀子にはなれない。自己抑制や自己規律が尋常じゃない。それは彼女の非常に厳しい前半生が作ったものなので、他者には近づきえない境地です。

■他者への顕示から内発的な充足へと消費の目的が変わっていく。満足の源泉が「人から見て自分はどうなのか」から、自分自身の中にあるものにシフトしていく。成熟のひとつの本質です。

■青少年時代はちょっとした考えごとを日記に書くこともありましたが、大人になってからの40年はごく簡単な事実の記述だけです。それでも日記をつけ続けることには大きな意味があります。記憶のストックになるからです。過去の自分がその日に何をやったのか、断片的な事実の記述だけで記憶が(完全ではないにせよ)たちどころに蘇ります。記憶こそが人間にとって最大の資産。日記ほど資産管理・運用に優れた方法はありません。

■日記には逆・賞味期限というようなものがあります。鮮度が高いうちはぜんぜん面白くありません。30年ぐらい経過してから美味しくなります。賞味期限はありません。愉しみは死ぬまで続きます。

■子育てについては「好きなようにしてください」を金科玉条の一大原則にしておりまして、ジッサイのところ彼女はスキなように生きています。大前さんは「私はそれ(子供が好き勝手に生きていること)が嬉しいし、何かで助けてくれと言われたときはもちろん助けますが、結婚なんて好きにすればいいってものですよ」とおっしゃっていました。僕の考えとまったく同じです。

■匂いが人間の認知にあたえる影響は大きなものがあると思います。僕が以前過ごしたところで言うと、イタリアにも独特の匂いがあります。ミラノにつくとその少し湿った匂いで、ああイタリアに来たなあ、と思います。僕はアメリカの匂い(とりわけ好きなのはハワイの匂い)もイタリアの匂いもわりとスキです。匂いがスキだとその国の文化がスキになれるような気がします。

■名著『美について』で美学者の今道友信は「美の究極は自己犠牲にある」と結論しています。単に言葉や態度で他者に配慮するだけでなく、他者の利益のために自己を犠牲にする行動、これが最も美しい。まったくもってその通り。自分の生活があまり美しくないことを思い知ります。

■勇気が人間の基本的な美徳であるのはなぜか。それは勇気が自分の精神的・身体的な安全性ーー究極的には命ーーを犠牲にする行為だからです。こう考えてみると、勇気と並ぶ人間の美徳として気前の良さがあると言ってもよい。その理由は、気前が良いということがその人にとって(命ほどではないものの)大切な経済的な価値(お金だけでなく労力や時間を含む)を犠牲にする行為だからです。

■(1)選択肢が無数にあり(2)評価次元が多岐にわたり(3)生活にとって重要かつ(4)それについて特段の知識を持たない事柄についての意思決定に迫られることがあります。「どこに住むか」はその典型です。こういう局面ではインターネットの情報サーチは使わないというのが僕の原則です。ネット情報ではなく、これは!という人にアドバイスを求める。自分が知る中でその分野において最もセンスがある人の意見を聞く。で、その人の薦めに従う。これが僕のやり方です。

■今となっては、世のことごとの90%は好き嫌いの問題と思えるようになりました。良し悪し基準で論じるのは間尺に合わない。趣味が違うだけ。他者の好みや考えが違っても、自分にとってはどうでもイイ。かかわらない。つながらない。コメントするなら「スキですな」の一言。気持ちよく放置。ビバ!多様性。

第2部(仕事編)

■この短い随筆は、ビジネスの一つの本質を浮き彫りにしています。すなわち、性能は客が決める。商品やサービスの価値は顧客の使用文脈の中で初めて決まります。どんなにグローバル化が進んでも、顧客を取り巻く文脈には国や地域で大きな違いがあります。文脈から切り離してひたすら「良いもの」を追求すると、しばしば供給側の独りよがりに陥ります。ようするに「顧客の視点に立って考える」という当たり前の結論になるわけですが、これが難しい。いよいよ市場が成熟したいま、この商売の原理原則はますます重要になっています。商売と経営の基盤にあるのは「人間に対する洞察」です。優れた経営者の一義的な条件は人間に興味があり、人間に対する理解が深いことにあります。

■人気と信用の違いは、時間軸で考えてみるとはっきりします。「人気取り」というように、人気はいま・ここで取りに行くものです。時間的な奥行きがありません。一方の信用は目先にあるものを取るわけにはいきません。長い時間をかけて少しずつ積み重ねていくものです。振り返った時に気づいてみたらそこにある。これが信用です。一夜にして成功を収めるには20年かかるということです。

■仕事には矜持を持たなければならない。プライドは大切である。しかし、それはある程度の成果を出し、実績を積んでからの話だ。自分(だけ)は特別だと思い込む。それが若者といえばそれまでだが、しょせん99%はフツーの人。「自分はまだ何者でもない」という認識からスタートするに越したことはない。若者にこそ絶対悲観主義の構えを勧めたい。気軽にフルスイングし、どんどん空振りするに若くはなし。若いときほど失敗におけるサンクコストは小さい。若者の特権は「これから先が長くある」「柔軟性がある」ではない。「まだ何にもない」ということにある。

■この10年ほどでよく使われるようになったフレーズに「イラッとする」がある。いまの時代を悪い意味で象徴する言葉だ。何を象徴しているかというと「大人の幼児化」。偏見かもしれないが、「イラッとする」という言葉には底抜けの幼児性を感じる。和田英は当時16歳。いまの基準ではタダの「子ども」だが、現代のその辺の大人よりもはるかに大人だった。決してイラッとしない。

■哲学の特徴はやたらに抽象度が高いことにある。人間の日常の思考や行動を思いっきり抽象化し、本質を突き詰めようとする。これに対して、ビジネスの世界では、「具体」は実践的で役に立つ、「抽象」は机上の空論で役に立たない、と決めつける風潮がある。とんでもない思い違いだ。優れた経営者は抽象と具体との往復運動を、大きな幅で頻繁かつ高速に繰り返す。そこに経営力の正体がある。

■経営学よりも経済学のほうがはるかに自然科学のアナロジーに乗りやすい。僕はファーマ先生の研究を、文字通りの「科学」として尊敬します。これぞ「法則」といった感がある。社会科学の中でも、経営学のアカデミックな位置づけは低いですね。そもそも「経営学」という単独のディシプリンはない。英語にすると「マネジメント・スタディーズ」と複数形になってしまい、寄せ集めのように扱われている。(楠木)

■社会科学と自然科学という分野違いがあっても、結局、仕事の本質の部分では共通している。「自分以外の誰かのため」という仕事観になっていないと、結局、本当の評価もついてこない。この当たり前のことに気づくまで、僕の場合はずいぶん時間がかかりました。(楠木)

■僕の仕事生活の知恵は、即時的な批判やコメントに「反応しない」「適応しない」「自分を変えない」です。自分の考えを延々と、慌てず、騒がず、いい続ける。僕を嫌いな人はそれでいい。それでも、中には好んでくれる人も出てくる。(楠木)

■「人のため」というと利他的に聞こえますが、本当のところでは、やっぱり「利己的」なのです。「自分のため」で頑張っていると、あるとき続かなくなる。それは苦しい。だから自分を救済するために、「自分以外の誰かのため」という気持ちが自然と湧いてくる。それは行き詰まりを経験すると、自然に分かることです。(楠木)

■僕は、人間はたとえそれが何かの直接的な手段になっていなくても考えるものだと思うんです。「考えることを放棄する」のはあまりに動物的で、人間に生まれたのにもったいない。結局、教養とは「自分の考えを自分の言葉で、自分以外の誰かに伝えることができる」ということです。

■たまに即時即物的に役立つことがあっても、あくまでそれは情報の氷山の一角です。なぜ自分の考えを書き留めるのかというと、「言語化」することが目的なんです。タイピングでも音声入力でもかまいません。書くことで自分の考えを定着させることができる。よく「違和感がある」という言葉を使いたがる人がいるけれど、これは言語化をなまけていますよね。情報に接してはいても考えておらず、考えが浅い。思考というのは「違和感」の先や奥にあるものです。

■「仕事ができる」とはどういうことか。あっさりいえば「頼りになる」ということです。「安心して任せられる」「この人なら何とかしてくれる」、もっといえば「この人じゃないとだめだ」、そう思わせる人が本当の意味で仕事ができる人です。

■センスには標準的な教科書はありません。それでも生得的な能力ではありません。センスは自らが経験を重ねる中で錬成するものです。他者が「育てる」ものではなく、当事者がセンスある人に「育つ」しかありません。だとしたら何ができるのか。その第一歩は、身の回りにいる「センスがある人」を一人選び、その人をよく見るということです。「センスの良さ」は一言では言語化できません。それでも、センスがある人とない人の違いは容易に見分けがつきます。ある局面や状況で、なぜその人はそうしたのか。なぜこうしなかったのか。漫然と見るのではなく、考えながら見る。この作業を続けていくうちに、センスの輪郭がだんだんと見えてきます。

■小さな実績→少しだけ大きな仕事→実績→仕事→実績→仕事……複利効果でだんだんと仕事の実績と成果が大きくなっていきます。もちろんこれには長い時間がかかります。ただし、です。そもそも仕事生活は長い。短距離走ではなくマラソンです。百年前と比べれば人間の寿命や仕事生活ははるかに長くなっているのですから、ますますゆっくりとやればイイ。

■繰り返しますが、世の中の多くのことが「気のせい」です。「お見合い」というと二の足を踏みますが、「マッチング」「婚活」と言えばその気になる。言葉の選択による気分の操作はヒジョーに費用対効果が大きい。経営はもちろん、人間社会にとってわりと重要な問題だと思います。

■具体的な仕事の方法論についてもいろいろな気づきや学びをいただきました。その一つが「仕事に追われるな、仕事を追え」です。つまりは時間軸での仕事への向き合い方です。仕事に追われるようになるとパフォーマンスは確実に低下します。こちらから攻撃的に仕事を追うーー言われてみれば確かにとても大切なことです。

■僕がこれまで受けた中でいちばんグッときたものが若いころ大前研一さんから言われたこれ。「生活を変える方法は、住むところを変える、つき合う人を変える、時間の使い方を大きく変える、この3つしかない。いちばん役に立たないのは『絶対に変わるぞ!という強い意志』だ」ーーうまい!これはホントに役に立ちました。

第3部(社会編)

■家族や友人、同じ職場の人々といった日常的に顔を合わせる関係にあれば、おカネ以外にもコミットメントを示す方法は無数にある。しかし、お互いに顔が見えない不特定の人々が価値交換をする場では、おカネを支払うことがもっとも効率的で効果的なコミットメントの表明手段となる。ここに市場経済の妙味がある。

■なぜか。人間もまた動物です。動物である以上、その本能というか、ちょっとやそっとでは変わらない本性というものがあります。僕は、結局のところこの世の中の基底を形づくっているのは人間の本性だと思っています。これを「本性主義」と言っています。

■議論の基盤として忘れてはならないこと、それは人間社会の本質的な連続性です。人間は変化を嫌う生き物であり、その集積としての社会はさらに変化に抗うという本性を持っている。社会全体レベルの変化は漸進的にしか進まない。「根本的な解決」というのはあり得ません。

■日本企業を相手に仕事をしたこともある彼は言いました。「日本は『激動期』とか『曲がり角』とかいった言葉がいつも飛び交っているけど、僕にいわせれば、この手の言葉はもっと慎重に使うべきだ。じたばたしても仕方がないんだから、もう少しゆったりと構えて、本当に大切なことは何かじっくり見極めた方がいいんじゃないか」

■非連続的な技術が登場しても、それを使う人間と人間社会は連続しています。基盤にある論理もまた連続しているということです。新しい技術について考えるとき、これが最重要の視点であると考えます。

■DXというと「デジタルデバイド」とか「取り残される人々」「リアルの価値喪失」という話をする人が必ず出てきます。しかし僕が思いますに、現実のDXのほとんどは、この「プロパンDX」のようなものです。これまで非効率が放置されていた領域ほど、DXの価値は大きい。単純に得。誰も損しない。何も失うものがない。生産性が向上するだけ。単にやればイイだけ。しかも、効果はすぐ出る。今どきこれほどうまい話はありません。

■(評者註:森喜朗氏は)ロッカールームの狭いところですれ違うときは、自分が身を引いて相手が通り過ぎるのを待つ。誰かが使ったタオルが床に落ちていれば、拾って片づける。洗面台を使った後は、飛び散った水をきれいに拭く。お風呂で使った腰かけや桶を元の場所にきちんと戻す。サウナやジャグジーに入るときは必ず「失礼します」。ジムの受付にいるスタッフにカギを返すときは「ありがとうございます」と一礼。誰に対しても態度が変わらない。目上の人に対して僕が言うのもナンですが、行儀がいつでもどこでも抜群にイイ。そういうことか……と得心しました。

■コロナがあろうとなかろうと、自分の仕事や生活は自分で何とかするのが大人というものです。僕にしても貴族でも何でもありません(貴族になりたいけど)。流れの中で自分なりに何とかやっているだけです。誰かに何とかしてもらおうと思った時点で、人生はおしまい。それと引き換えに自立や自律という絶対的なものを失ってしまう。何のために生きているのかわからなくなってしまいます。

■僕が普段感じていることの一つに、インターネットとPCが普及するようになって人々の文章を書く力が際立って劣化したことがあります。仕事柄、多くの「文章を書くことを仕事にしている人」を目にします。お話にならないほど文章が下手な人が実に多い。メディアの取材で「ライター」と称する人とよく仕事をするのですが、出てくる文章をみますと、これでよくプロとしてやっていけているなと驚くことしばしばです。

■文章能力は僕の仕事上の重大事です。アスリートが足腰を鍛えるのと同じように、仕事の基盤として僕なりに鍛錬してきたつもりです。ただし、です。これはもう絶対の確信をもって断言できますが、50年前だったら、僕ごときの文章能力ではプロとしてなかなか通用しなかったと思います。本当のところは世間一般の文章力が著しく劣化しているだけ。そのおかげさまをもちまして、文章を書くことを仕事にできています。まったくありがたい世の中になったものです。

コメント

1冊で300ページを超えている大部な本であるが、その内容は個人の有料ブログの記事やスカイマークの機内誌の連載となっている。その他にも新聞や雑誌などの記事もあるが、だいたいがブログと機内誌の記事となっている。

楠木建氏の専門である競争戦略に関する論説や記事も示唆に富むのだが、やはり個人的にはこういった日常のなかでの洞察が面白い。

単純に「こういった見方があるのか」と勉強になるうえに、文章がユーモアに溢れていて読んでいて飽きがこない。

読んでいて面白いのに何かしら示唆に富む、といういいとこ取りをしている。

楠木建氏の著作によく出てくる高峰秀子の話。

今回もこ多分に漏れず出てきているが、そのなかでも「高峰さんは人から『趣味がいいですね』と言われるたびにこう答えています。『いいかどうかはわからないけど、あるね、趣味は』」という話を引っ張り、そこから「スタイルというものはあるか・ないかの問題であり、その一つひとつに自分自身によるきっぱりとした選択がある」と導く。

きっと誰もが何かしら自分のスタイルを持っているわけだが、それを自覚している人は少ない気がするし、さらにそれに合わせて自ら選択していると言える人は稀有だろう。

かくいう自分もまったく自分のスタイルなんて意識したことはない。

しかし、よく考えてみると無意識に選択には選好があるし、それが朧気なスタイルに沿った選択になっている気もする。

最初からスタイルが確率している人もいるのだろうが、そもそもスタイルの構築自体が、自分の過去の選択の結果からしか構築できない気がする。

そう考えるとスタイルと選択は卵鶏の関係なのだろうか・・・。

いずれにしても、その価値観、スタイルと選択の関係性に自覚的になることが初歩だと思う。自分自身もまずはそこからだ。

もう一つ響いたのは、「『仕事ができる』とはどういうことか。あっさりいえば『頼りになる』ということ」という部分。

これはまさしくで、首肯してしまう。

頼りになるというのはスキルを超えている。人間的なオーラとか雰囲気とか、そういう要素に還元できないものに思う。

こう言うとスピリチュアルな感じもするが、「仕事ができる人」を思い浮かべるとき、「あの人なら何とかしてくれる」という思いを抱いているのは間違いない。

絶対的守護神のような信頼感。だからこそ一朝一夕では身につかないようにも感じる。

しかし、日々少しずつ実績を積み上げる努力をし、徐々に信頼を築き上げていったうえにそういった仕事ができる雰囲気やオーラは身につくのだろうか。

人間的なオーラとか雰囲気は、要素に還元できない気もするが、実績がなければそういったオーラを身にまとうのも難しいことを考えると、部分的には身につく気もする。

これはカリスマ性を後天的に身にまとえるのかという話に帰着しそうなような。

とりあえず自分は日々少しずつ精進し、実績を築き上げることを目指すべきか。

楠木建氏の著作は印象に残る部分が多いので、毎回抜粋が多くなってしまう・・・。

一言学び

「仕事ができる」とはどういうことか。あっさりいえば「頼りになる」ということです。

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