読書レビュー:『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』(鈴木大介)

読書

読みたいと思ったきっかけ

本屋に入ったときに気になったので購入。


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

まえがき 最貧困女子から10年
第一章 「なぜ?」の原風景
第二章 自己責任的に見える当事者
第三章 やっとわかった彼らの言葉
第四章 「働けない脳」の僕たち
第五章 なぜ彼らは座して破滅を待つのか
第六章 なぜ彼らは制度利用が困難なのか
第七章 「働けない脳」でどうするか?ーー当事者と周辺者・支援者へ
第八章 唯一前進している生活保護界隈
最終章 貧困の正体
あとがき    

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

まえがき(最貧困女子から10年)

■貧困とは「不自由な脳」(脳の認知機能や情報処理機能の低下)で生きる結果として、高確率で陥る二次症状、もしくは症候群とでも言えるようなものなのだ。

第一章(「なぜ?」の原風景)

※特になし

第二章(自己責任的に見える当事者)

※特になし

第三章(やっとわかった彼らの言葉)

■繰り返すが、この脳の状況で働くのは、働き続けることは、極めて難しい。正直、この脳性疲労というひとつの症状だけでも、脳が不自由な者が働けなくなったり仕事に戻れなかったりの説明は十分につくと思うし、繰り返すが脳性疲労は精神疾患であれ発達特性であれ高次脳機能障害であれ、また様々な認知症であれ、脳に不自由を抱える者に一定の共通性のある症状だと僕は確信している。

第四章(「働けない脳」の僕たち)

■だが実は、この「約束の時間を守らないこと」「時間にいい加減なこと」こそは、貧困当事者の取材活動の中で感じ続けていた彼らの大きな共通点だった。

■約束の時間を守れない。この不気味な不自由の背景となっていたのは、何のことはない、注意障害。いわゆる「気が散りやすい」などと言われる症状によって、僕の脳が「異様に探し物が苦手」な状況になっていて、その探し物に「異様な時間感覚の喪失」が伴っていることが、その背景だった。

■では一方、同じ約束を守れないの中でも、約束の「すっぽかし」や「ダブルブッキング」が頻発した背景は何か?その背景にあったのは、注意機能ではなく、ワーキングメモリ(短期記憶)の機能低下だった。

第五章(なぜ彼らは座して破滅を待つのか)

■「問題から目を逸らすな」と言うのは簡単だし、かつては僕自身も自身にそう焚きつけて生きてきた。けれど、問題を直視したらその問題を解決する行動すらできなくなってしまう、即ちむしろ状況の悪化を招くような症状があり、目を逸らすことが「いま起こす行動のための逃避・忘却」ならば、それは自己防衛的な選択と言えないだろうか。

第六章(なぜ彼らは制度利用が困難なのか)

■自身がこの不自由な脳になって「彼らの言っていたのはこういう感覚だったのか!」と驚き、やっと理解ができたことに感動すら覚えたポイントがある。それが、「事務処理能力の喪失」だ。これは、不自由な脳の当事者が制度につながりにくい様々な理由の中でも、ど真ん中の「症状」である。

■その答えが、ここにある。苛酷な環境とストレスは不自由な脳を招く。そしてそれは、ボディブロー的に後から効いてくる。だとすれば、現状の社会ではこの不自由な脳が一層普遍的なリスクに思えてくる。

第七章(「働けない脳」でどうするか?ーー当事者と周辺者・支援者へ)

■けれど僕自身は、殊に「不安の軽減」「代償手段の見極めと習得」という目的のために、エビデンスベースの診断・厳密な診断名が重要だとは、全く思わない。むしろケースによっては、エビデンスファーストは、当事者ファーストの対極になり得ると感じている。

■強調したい。「できないことを知る」のも重要だが、可能ならその前に「いまの自分にもまだできること」=自身の最大限のスペックがどのぐらい残存しているかを知ること。環境や条件を完璧に調整した上であれば、どのぐらいまだやれるのかを知る。そして周辺者がその機会を与えることこそ、当事者ファーストの支援なのではないか?

■もちろん、症状として手に負えないような幼児退行ケースも存在する。だが、不自由な脳の当事者にとって、信頼できる他者への依存とは、自律的にできることを増やすための、自身に残存するスペックを最大限発揮するための生存戦略なのだ。むしろ適度に依存することは本人が自身でやれることを増やす道であると同時に、周囲の負担を軽減することにもつながる。

■とにかく、我々が苦しいと言っていることを無視も軽視も無用な解釈もせず、ただただその言葉をそのままに受け止め、「楽になるために何が必要か」、一緒に考え学んでくれることを、切望する。そして当事者も、あらゆることが困難になってしまっても、周辺者に理解してもらうための努力だけは諦めないでほしい。我々にとってそこを諦めることは、生存の放棄に等しいと思う。

第八章(唯一前進している生活保護界隈)

※特になし

最終章(貧困の正体)

■「誰の子としてどこに生まれるか」「どのような環境で生育するか」こそは、本人の自己責任から最も遠いところにあるものだ。自らが選べない環境と、得られなかった様々な自己資源によって、生き方を限定されてしまう、抜け出せない貧しさに絡めとられてしまう。それが世代間を連鎖する貧困の正体だという確信は、いまも変わらない。

■少々表現に気を遣うが、世代間を連鎖する貧困と切り離せない問題である「連鎖する虐待・暴力的養育」(殴られて育った親が殴って育てる)にもまた、誤学習の連鎖があるはずだ。

あとがき

※特になし

コメント

鈴木大介氏の著作でいうと話題になった『最貧困女子』を読んだことがある。

その後にご自身が脳梗塞で倒れたことで、本書に記載されている「不自由な脳」「脳性疲労」を実際に体験することでそれまで取材してきた方々の言っていたことを追体験したという。

脳の機能が制限されていることが原因であるならば、そこに当人の意思が介在する余地は少ない。

仮に自分の意思を持ち、実行しようとしても、脳が機能不全であればそのタスクを実行に移すことはほぼ不可能なのは、確かにそのとおりだろうと思う。

貧困問題にフォーカスが当たるときにとかく自己責任論を強調してしまうが、これは橘玲氏が指摘する「リベラル化が進むと、①世界は複雑になり、②中間共同体が解体され、自己責任が強調される」という潮流のなかで避けがたいのかもしれない。

ただ、本書を読むとそれを自己責任論で片付けていいものか疑問符がつく。

自己責任というときにそこでは自由意思が前提になっていて、各自が自由に自分自身の希望どおりに行動することができるという想定がなされているが、脳機能が正常でない場合、そこに自由意思があるのか、希望どおりに行動していると判断できるのか。

もし自由意思がなく、自由な行動ができていないとしたら、自己責任の前提がそもそもないことになる。そして前提がなければ自己責任とも言えなくなる。

とはいえ、そういう風に見る人も、接する人も少ないのが現状だろうし、実際に自分自身がそういう風な見方をできるかも自信がない。

ただ、自分が「不自由な脳」になってしまう可能性も十分にあり得る話だし、こういった視点を持っておくことは重要だろう。その意味でも本書の内容を把握しておくことは有意義であると思う。

一点、「不自由な脳」や「脳性疲労」が医学的にどういった状態なのか、その原因や対処法、治療法などがあるかなども記載されていれば、よりわかりやすかったように感じた。(原因がわからないと不安になる自分の悪しき習性のせいかもしれないが)

読了して明るい気分になったり、スカッとするものではないが、本書を読むことで新たな視点を得られるのは間違いない。

一言学び

貧困とは「不自由な脳」(脳の認知機能や情報処理機能の低下)で生きる結果として、高確率で陥る二次症状、もしくは症候群とでも言えるようなものなのだ。


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