読みたいと思ったきっかけ
書店でたまため見かけたのがきっかけ。
冨山和彦氏の著作を買うのは久しぶりかもしれない。
内容
目次
目次は以下のとおりとなっている。
はじめに | : | シン・学問のすゝめ |
序章 | : | 労働力消滅、ふたたび |
第1章 | : | グローバル企業は劇的に変わらざるを得ない |
第2章 | : | ローカル経済で確実に進む「人手不足クライシス」 |
第3章 | : | エッセンシャルワーカーを「アドバンスト」にする |
第4章 | : | 悩めるホワイトカラーとその予備軍への処方箋 |
第5章 | : | 日本再生への20の提言 |
おわりに | : | 「ややこしさ」に強い「両利きの国」への大転換を急げ |
内容
わたしの気になった箇所について記載する。
はじめに(シン・学問のすゝめ)
※特になし
序章(労働力消滅、ふたたび)
■所得も税収も伸びず、少子高齢化も進むなかで家計の経済的安定を維持しようとすれば財政は悪化する。現在の極めて厳しい財政事情も「停滞なる安定」の代償なのだ。
第1章(グローバル企業は劇的に変わらざるを得ない)
■だとすると、残るはもう一つの方法しかない。従来のように漫然と量や規模を追わず、ほかの企業が手を出せないような「ややこしさ」を突き詰めることである。これはつまり、複雑領域における高度なデリバリー能力を梃子にした高付加価値差別化である。
■グローバル産業における日本企業の多くは、こうしたグローバルでの戦い方には気づいている(だから『両利きの経営』は、あの手の書籍としては異例のロング・ベストセラーになっている)。しかしながら、ほとんどの企業が依然として気づいているだけの状況だ。頭ではわかっているが、それを実行する「身体づくり」が未熟なため、体質の転換、思考様式、行動様式の転換までは至っていない。両利きの経営は戦略論よりも組織能力論、組織機能論にこそ真髄があるのだ。
■企業は従業員に対して、数少ない「真のボス」ポストを目指して真剣勝負をしてもらうか、部下ホワイトカラーとしてAIの圧力で下がる賃金に耐えてもらうか、それとも人手不足かつ(後述するように)AI代替が起きにくいノンデスクワーカー技能職の世界に転職するか、を問うべきだと思う。冷たいようだが、長い目では厳しい現実を伝えないほうが不誠実だ。鬼手仏心で臨むべし。
■そして気が付いたのは、大学受験で一番面白かった数学、司法試験時代にのめり込んだ比較憲法学をはじめとする基礎法学やビジネススクールで学んだ会計学や企業財務、経済学の基礎学力の有用性であり、若い頃に読んだ古典の普遍的通用性である。それは自分の中の旧憲法時代に詰め込み式で叩き込んだものである。
第2章(ローカル経済で確実に進む「人手不足クライシス」)
■仕事の魅力度はつまるところ、より少ない労働時間で多くを稼げるか、ワークライフバランスの取れた人生を送れるか、である。
■マーケットが飽和状態になったのに、そこに無理やり供給を押し込もうとすると、価格は下がっていく。日本企業の好きな「前年比プラス予算」を漫然と立ててしまうと、付加価値の追求ができなくなる。
■味覚の問題などすべて含め、繊細なこと、手の込んだことを安定して提供できるのが、日本社会が持つ根源的競争力なのだ。
■付加価値労働生産性を上げるための方法として重要なのが、企業の新陳代謝である。人間を含む生物の成長力がその新陳代謝力と比例するのと同様に、経済の成長力も新陳代謝なしには難しい。
第3章(エッセンシャルワーカーを「アドバンスト」にする)
■ちなみに、最後に残る抵抗勢力が持ち出す議論が「教養」教育の重要性だ。そして慶應義塾の塾長だった小泉信三氏が語ったとされる「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなるが、すぐに役に立たないもののなかにずっと役に立つものがある」という言葉を持ち出す。…すぐに役立つものでずっと役に立つものと、すぐに役に立たないがいつか役に立つものと、どちらの数が多いか、少し考えれば自明である。昔も今も役に立っているものの多くはずっと役に立つ。その逆、すぐに役に立たないものがいつか役に立つ確率は低い。たいていはいつまで経っても役に立たない。
第4章(悩めるホワイトカラーとその予備軍への処方箋)
■しかし、企業自身のCXがそうであるように、これだけ大きな社会と経済の転換局面にあって、一朝一夕でなんとかなる処方箋など存在しない。腹を括って自分自身の生き方、働き方、武器やスキルをどうするのか、それを実現するにはいかに自分自身が変容、すなわち自己トランスフォーメーションをすべきかを考え、そのための努力を営々と続けて自らを変えていくしかない。小手先のキャリア戦略や戦術は早晩、通用しなくなる。ほとんどの場合、現状のホワイトカラーサラリーマンモデルの人材である限り、年年歳歳、世の中からお呼びはかからなくなっていくからだ。
■この点、よく「リベラルアーツはいつか役に立つ」と言われる。だが、その言い方も誤っている。状況が役に立つかどうか、もっと言えば状況でその力を繰り出せるほどに身体化できているかどうかが有用性を決めるのだ。
■リベラルアーツには「基礎編」「応用編」がある。基礎編の基本要素は、いわゆる「言語的技能・技法」を指す。聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているように、人間は言語でものを考える。つまり「これが身についていないとものを考えられない」の「これ」を指すのがリベラルアーツである。
■実はこうした言語的技法の基礎が身についてくれば、大抵のホワイトカラーは潰しが利く人材になれる。これらはビジネスパースンとして生きていく上で時代変化を超えて有効な「すぐ役に立ってずっと役に立つ」根本スキルであり、しかも日本のホワイトカラーの多くが身につけていない、すなわち身につければそれだけで十分な差別化要因になるからである。
■SNSの時代なので短文の読み書き能力は放っておいても向上するが、ビジネスパースンに問われる能力は、相当量のファクトを認識し整理し、一定の思考フレームワークを選択し、それらを当てはめて論理を構築する、さらにわかりやすく表現する力だ。仕事の世界で他人に物事を伝えるにはこうした最低限のファクトとロジックの「物語り」の基本構造が必要なのだ。言語化能力をセンスのように言う人が多いが、この物語りがしっかりしていることが前提で、そこから伝わりやすい語彙選択をする順番である。中身がない、中身がごちゃごちゃなものは、どう言語化してもぐちゃぐちゃである。
■ここで重要なのは、人間にとって読んで理解できないものを書くことはできないということ。だからそれなりの長文を読んで理解する能力がないと文章は書けない。そこで本を読むこと、長文を読むこと、それもできるだけいろいろな文章を読むことが大事となる。
■今まで読んだ量が少ないと思っている人は今からでも遅くはない、とにかく濫読せよ、である。今から振り返ると、子どもの頃に好奇心に任せて読みまくった子ども百科事典、10代に格好つけて無理やり読んだ小説や哲学書、そして楽しくて読んだコミック、20代に入って嫌々読んだ大量の法律書、30代のはじめに大量に読まされたビジネススクールの英語のリーディングアサインメントに本当に救われている。もちろん仕事柄、最低限求められるレベルは違うので、多くのホワイトカラーにとって自分が経験したレベルの訓練は必要ないと思う。しかし、日本の大卒サラリーマン、特に文系のほとんどは長い文章を読む力が決定的に足りない。
■あえて「学ぶ」に近い概念でヒントを示すなら、インプットには古典がおすすめである。本でも映画でも演劇でもコミックでも、古今東西、古典として残っているものには、人間と人間社会が抱える本質的、普遍的な苦悩や業が描かれているからだ。これこそが我々があらかじめ正解を持てない世界なのである。ここでは読むことや観ること以上に、その世界に触れながらとにかく考えること、自分なりに掘り下げることが大事である。本を読んでいても映画や芝居を観ていても途中で上の空になってもいい、自分の妄想の世界に入って行ってもいい。とにかく考えよ。これが実践的知性を鍛えることになる。
■しかし、数学が高度化するとほとんどの人がどこかで挫折することと同様に、物事を抽象化、普遍化するときにどこまでついて行けるか、実感を持った抽象概念を持てるか、これはやや才能と関連する部分が大きい。
■管理職になることを拒否することで、その空間で生き残ろうとする。それこそが、時間さえかければ誰でも部課長になり、定年まで勤め上げられるシステムが崩壊しかけている一つの証左とも言える。
■そのような視点を持つと、正確さが鈍る。浮世は現金なもので、努力は褒めてくれるが、金は払ってくれない。現役のホワイトカラー社員なら、もし企業が経営危機に陥り、人を半分に減らさないと潰れる状況に陥ったとき、自分はどちらの半分に入るのか、自己検証してみよう。あまり考えたくない内容であり、考えるのもつらい作業であり、基準や指標が明確ではないが、どうしてもやっておきたい。
■そうだとすると、大企業の歯車で10年、20年経験を積むより、中小企業のナンバー3、ナンバー2、社長の右腕のほうが、短期間ではるかに実力が身につく。
■仕事において、WILLとCANとMUSTが重なっていれば、人生はかなりの確率で愉快になる。しかしそれは、今所属する企業にはない場合も多いので、そこから自分のキャリア戦略を真剣に考えていかなければならない。企業のなかでも、今は「お手挙げ制」を採用しているところも多く、どのポストに手を挙げるかという選択肢もある。アフター5でさまざまな勉強をし直すことも含め、キャリア戦略は30代半ばぐらいまでには考えておきたい。
第5章(日本再生への20の提言)
■すなわち人々が平時感覚のときに多くの改革マターを一斉に仕掛けると大変なエネルギー、ポリティカルキャピタルを使うことになり、虻蜂取らずで力尽きる場合が多いということだ。言い換えれば、改革モードにおいては勝負すべきテーマは絞り込まなくてはならないということである。逆に、再生局面のように人々がリアルに痛みを感じる状況が来ると、一気呵成に大きな変革の始動が可能となる。
おわりに(「ややこしさ」に強い「両利きの国」への大転換を急げ)
※特になし
コメント
新書でありながら300ページ近くあるが、そこまで読みづらい感じはなく、そこまで読むのに時間は掛からなかった。
本書は時代や産業構造の変化に伴う国、国家レベルでの戦略や方向性を提案しているものであるが、ホワイトカラーの労働者への処方箋も提示してくれており、個人的にはそこが本書の白眉に思う。
自分自身、最近になって改めて感じることだが、やはり読んで書くという基本能力の高さは武器になる。
霞ヶ関に来てみて強く感じるのは、総じて読み書き能力が高いということ。そしてその土台がないことには何も始まらないということ。
本書に記載のとおり「ビジネスパースンに問われる能力は、相当量のファクトを認識し整理し、一定の思考フレームワークを選択し、それらを当てはめて論理を構築する、さらにわかりやすく表現する力」であるという主張は非常に腹落ちする部分。
ホワイトカラー業務のうち、ほとんどにおいて、この読んで書くという作業が避けられないことを考えれば、改めて自分自身の読み書き能力を鍛え直すことの重要性を感じる。
この読み書き能力を鍛える作業は、回避しようと思えば意外と回避できてしまうので、意識的に取り組まないといけない。
なるべく長い文章を読み、そしてなるべく多く文章を書いていかないといけない。
本書にも記載があるが、資料といえばPPTで作成することが多いが、PPTのフォーマットは「誤魔化しが利く」ので、なるべくWordベースの文章で書いていかねばならない。
こう考えると、基本的な教育内容ある読み書きというのは大人になってからもずっと影響することを考えると、改めてそこに真剣に取り組むことの重要性も感じるし、自分の子どもに対しても読み書きの能力だけは一定水準でも担保してあげねば、と思ってしまった。
とはいえ子どものことよりも、まずは自分自身。濫読し、どんどん書いていこう。
一言学び
ビジネスパースンに問われる能力は、相当量のファクトを認識し整理し、一定の思考フレームワークを選択し、それらを当てはめて論理を構築する、さらにわかりやすく表現する力だ。仕事の世界で他人に物事を伝えるにはこうした最低限のファクトとロジックの「物語り」の基本構造が必要なのだ。
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