読書レビュー:『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(早坂隆)

読書

読みたいと思ったきっかけ

霞ヶ関で働くようになってから官僚組織というものに興味が出てきた。

そこで思い出したのが佐藤優氏が「昭和の軍人は、戦争を含む行政官に過ぎなかった」と述べていたことで、陸軍の歴史に少し関心を持ち始めた。

そのなかで永田鉄山に興味が湧き、本書を購入した。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」 (文春新書) [ 早坂 隆 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2024/11/4時点)


内容

目次

目次は以下のとおりとなっている。

はじめに    
第一章 諏訪時代
第二章 陸軍軍人への道
第三章 国防への意識
第四章 総動員体制の構築を目指して
第五章 満州事変への対処
第六章 派閥抗争
第七章 揺れる陸軍
最終章 暗殺
エピローグ    
あとがき    

内容

わたしの気になった箇所について記載する。

はじめに

■確かに、永田の急逝は、昭和史における大きな分水嶺となった。日本の敗戦の要因を逆算していくと、永田暗殺事件に辿り着くという観点は、充分に検討に値する。無論、「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」という言葉の蓋然性など、容易に実証できるはずがない。但し、斯かる言葉が生じるに至った経緯や背景に関しては、幾つかの側面から考察することができよう。

第一章(諏訪時代)

■市川氏の他にも、諏訪市出身の「戦中派」の方々にもお話を伺ったが、「永田のことを英雄として教わった記憶はない」という意見は共通するものであった。確かに永田が迎えた「暗殺」という結末を考慮すれば、相澤事件は陸軍にとって恥ずべき一大不祥事と言わざるを得ず、このことが永田の存在を語る行為への一定の抑制として働いたのかもしれない。

第二章(陸軍軍人への道)

■陸軍において「陸士の同期生」というのは、大きな意味を有していた。強い仲間意識のもと、生涯にわたる友情関係で結ばれる場合が多かった。多彩な若者たちの揃った第16期生は、後に「俊秀雲の如し」と呼ばれることとなるが、その中でも永田の成績は突出していた。

■明治41年(1908年)12月、永田は陸軍大学校(陸大)に入校。2年以上の部隊勤務を経験した尉官級で、連隊長の推薦を得られた者にのみ受験資格が与えられる陸大は、陸軍の参謀や高級将校を養成するための最難関の軍学校であるが、永田はこの狭き門を見事に突破した。

■陸大の受験は多年にわたって浪人する場合が多かったため、永田と陸士で同期だった土肥原賢二は1年遅れの第24期、岡村寧次は第25期、板垣征四郎は第28期となっている。永田の能力が、如何に卓越したものであったかが、この辺りの経歴からも察せられる。

■栄えある卒業者には、胸部に菊花と星章を象った「陸軍大学校卒業徽章」が寄与された。この徽章が、江戸期の天保通宝に相似していたことから、同校の卒業生は「天保銭組」と呼称された。片や、陸大を出ていない将校は「無天」と揶揄され、両者の確執が無用な摩擦に繋がることも少なくなかった。

第三章(国防への意識)

■即ち、永田は軍隊組織の改革にのみ注力したのではなく、近代国家としての日本のあるべき全体像を重層的に熟思していたのであった。「総動員体制」の実現のためには、兵士や武器に関する体系の改革だけでは不十分だと看破した結果である。

■大正8年(1919年)4月、永田は陸軍少佐に昇進。彼が眼鏡をかけ始めたのは、この頃からだったと思われる。

■永田は欧州での豊富な滞在経験を通じ、第一次世界大戦における総力戦の内実について理解を深めていた。永田は、エーリヒ・ルーデンドルフの思想を殊に研究し、「平和とは2つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎない」「全ての手段は、戦争指導に従属させるべし」といった言葉を悉く吸収していた。

■永田が唱える「軍民一致」とは、聞きようによっては剣呑な表現に受け取られるかもしれない。しかし、これこそが「軍部独裁」ではなく「デモクラシー時代の軍隊のあるべき姿」であると永田は定義していた。寧ろ、「国防を一部の軍人だけが担う」という体制こそ、軍事力が暴走する危険性を内包するのであり、「国防は国民全体で行う」という国家の形が実は最も「民主的」なのだと永田は説くのである。これが彼の考える「公正」でもある。

第四章(総動員体制の構築を目指して)

■会の名称は、会合の場所に使用していた渋谷のフランス料亭「二葉亭」に由来する。二葉会で主要な議題とされたのが「満蒙問題」と「陸軍人事の刷新」であった。陸軍中堅幹部にとって、これらの問題は最大の懸案事項となっていた。

■永田は同連隊において「軍紀による結束」を信条とし、「隊長への個人崇拝」を排するよう指導した。軍隊において「あの隊長のためなら喜んで命を捨てる」といった思想は、言わば封建制の発芽であって、断じて認められないというのが永田の所見であった。仮令、いつ隊長が代わっても、「新たな上官のもと、それまでと全く同じ態度で、指揮系統に従いながら献身できること」が軍人の本分であると永田は洞察していたのである。こうした組織造りの要諦にこそ、永田の思想が色濃く滲んでいる。それは言わば、明治の軍隊と昭和の軍隊の「違い」への深い認識に基づくものだった。巨大化し、官僚化する昭和の軍組織にあって、日清・日露戦争を戦った上官と兵士との間にあった個人的紐帯を基礎とする組織づくりは、極めて難しくなっていた。属人的な関係による集団から機能的組織への進化が要請されていたのである。

■「青年将校」という言葉は本稿においても頻出することになるが、その意味は「陸軍士官学校を卒業後、隊附勤務となっている20代半ばから30代前半の将校」のことを主に指す。

■軍務局軍事課長という役職は、軍政の事務を司るまさに「頭脳」である。陸軍の設計図を描く重要な地位の一つと言ってもいい。殊に、予算の配分に関しては、強い発言力を有していた。永田は敏腕を以て、陸軍の要職にまで上り詰めたのである。

■だが、目的を達するために用いようとした手段には、大きな違いがあった。石原は「武力行使」に訴えてでも、日本を「持てる国」にしようとした。そうしなければ、日本は滅びてしまうという、天才ならではの一種の達観である。一方の永田は、あくまでも「総動員体制の構築」によって、日本を「持てる国」へと漸進的に近付けようと考えていた。永田は、関東軍が自らの武力に頼る形で、早急に満蒙問題の解決に当たろうとしている姿勢を決して肯定しなかった。

第五章(満州事変への対処)

■教育総監とは、陸軍の教育行政を束ねる責任者であり、陸軍大臣、参謀総長と並んで「陸軍三長官」と称される重職であった。

■永田個人としては、国際連盟という組織を必ずしも評価していない。畢竟、国際連盟とは欧米の先進国に都合の良い組織でしかないと永田は看破している。しかし、だからと言って現実問題としてこの組織を軽視すべきでないことも、永田は充分に認識していた。

第六章(派閥抗争)

■しかし、この効果は皮肉な結果を招いた。即ち、出身地による派閥争いが沈静化したのと反比例するようにして、思想や信条の相違に端を発する立場の隔たりが、より鮮明な形で表れるようになったのである。考え方の違いによる派閥の生成が、歴然と顕在化したのであった。但し、これも一概に悪い現象とは言えないであろう。組織論として、とある集団に一定の色分けが生じるのは必然である。上官となった者が、自分と思想的に近い人物を部下として脇に置くことは、仕事の効率化を図る上でも当然の帰趨と言える。本人の努力ではどうにもならない出身地という要素を背景とした派閥の定着よりも、思想による集団の組成という状態は、より合理的な段階と看做すことができる。そういった意味において、思想の別による組織の色分けは、一つの前進として評価することができよう。けれども永田にとっては、斯様な派閥抗争も許容し難いことであった。そして、この色分けがあまりに過剰な形で先鋭化してしまったところに、昭和陸軍の悲劇性がある。

■「一日の戦費があれば、数ヶ月の平和を維持することができる」永田は「将来の戦争は世界戦争になりやすい」「その惨禍は創造にあまりある」「勝利者の利益は、払った犠牲に及ぶべくもない」と今後の戦争の形を予測。「国民は戦争による利益を求めてはならない」「最後まで外交工作によって極力、戦争を避けなくてはならない」と持論を披瀝した。これこそが、彼の偽らざる戦争観であった。

■昭和8年8月、永田は参謀本部第二部長から歩兵第一旅団長に転補。「陸軍中央の頭脳」から離れることを意味するこの人事は、永田にとって歯痒さの残るものであった。この転属は、派閥抗争の激化を回避しようという上層部の意図による決定であったと言われている。小畑と(評者註:小畑敏四郎)の対立が先鋭化したことに対する懲罰的な意味もあったとされる。こうして永田は参謀本部を去った。だが、それは小畑も同じであった。小畑も参謀本部第三部長から近衛歩兵第一旅団長に転出となったのである。差し詰め「喧嘩両成敗」といったところであろう。

■この人事により、陸軍中央は「荒木軍政」との訣別を図ったとも言える。このような時流の結果、永田は3月(評者註:昭和9年(1934年))に陸軍省軍務局長に新補。歩兵第一旅団長から、一挙に栄転を果たした。この人事の背景に、林陸相の差配があったことは容易に想像が付く。これが「林・永田体制」とでも言うべき、新局面の始まりであった。加えて、永田は軍事参議院幹事長も兼任。詰まる所、永田の復権と言えよう。永田は林から深い信認を得ていた。「諏訪の俊才」も、50歳になっている。

■例えば、永田は石原莞爾のような生来のカリスマ性に裏打ちされた天才的な理想主義者ではない。永田は理想は持ちながらも軍中央における現実的な実務者として、目前の仕事を着実に進展させていくタイプの偉材であった。

■その後も永田は、皇道派の面々を躊躇なく陸軍中央から切り離し、その上で組織の体制を土壌から再整備することに邁進した。斯くして、陸軍内での両派の対立は、統制派の優勢が鮮明となったのである。しかし、このような人事は、数多の敵対者を生んだ。人事が人の恨みを買うのは、いつの世も同じである。

■永田が局長を務める軍務局は、軍の予算編成について最も重要な役割を担う部局である。永田はこの分野においても、見事な辣腕を発揮した。各組織の利益が衝突し合う予算についての議論は例年、揉めに揉めるのが通例であった。前陸相の荒木貞夫が、予算案を巡る大蔵省との対立を契機に辞任したことは、先に触れた通りである。永田は大蔵省との折衝は勿論、他の関係省庁とも緊密に連絡を取り合い、豊富な人脈を活かしながら、周囲が驚くほどスムーズに交渉を進めていった。

■とかく精神論を好む性向の人物が多かった当時の陸軍内において、永田のような徹底した合理主義者は異彩であった。永田の部下であった武藤章は、冗談で「鉄山殿合理適正大居士」なる戒名を作ったという。永田の性格をよく表した言葉と言えるであろう。

第七章(揺れる陸軍)

■彼(評者註:相沢三郎)の思想の根底には「尊王絶対主義」がある。絶対的存在である天皇陛下の意志を、周囲の側近たちが正確に国民に伝えていないことが、現状の日本が抱える諸悪の根源であると彼は判じていた。相沢の眼には、陸軍上層部は「君側の奸」ばかりに映る。そんな憎むべき存在の中心に永田がいた。

■一般論として、権力を有すれば有するほど、組織内外における敵対者は必然的に多くなる。それは、その人物が辣腕であれば尚更という面もあろう。永田の場合も、その例に漏れない。皇道派の青年将校たちの眼からすると、永田は「腐敗した軍中央の象徴」のように映った。

最終章(暗殺)

■真崎と生前の永田が、陸軍中央で敵対したことは、本稿で繰り返し述べてきた通りである。だが、二人は本来、「反長州閥」として親交が厚かった。そんな二人が次第に思想的に離反するようになり、激しく対立していったことは、人間関係の困難さを表す一つの象徴のようにも見える。

エピローグ

■事件後、多くの将校たちが叛乱罪で逮捕されたが、その中には磯部や村中の他、北一輝や西田税など、相沢との関係の深かった者たちの姿も多くあった。二・二六事件が、相沢事件の延長線上にあったことが理解できよう。…即ち、この二・二六事件を契機として皇道派は大きく凋落し、統制派が陸軍の実権を握ることが明瞭となったのであった。しかし、それは正確に言うと「永田なき統制派」だったのである。

■元軍務局軍事課員・池田純久は、相沢事件後の陸軍の迷走について、次のように記す。<永田中将の死は、いわば桶のたががはずれたようなもので、陸軍はバラバラになり、滅茶滅茶になったのである>(『日本の曲り角』)池田はこう続ける。<永田中将の死の翌年には、前代未聞の二・二六事件が起こったではないか。そしてその翌年には日本の命取りといわれる支那事変が起こり、陸軍省首脳部に確固たる方針がなく、ズルズルと大戦争へと突き進んで行ったではないか。永田中将が存命していたら、支那事変の発生を未然に防ぎえたであろうことが想像される。そうなっていたら、日本の運命はまったく違ってきたであろう>(同書)

あとがき

※特になし

コメント

永田鉄山という名前を聞いたことはあったものの、恥ずかしながらこれまで全くどういう人物であり、何をしたのかを把握していなかった。

その意味で本書は永田鉄山という人物の誕生から暗殺による死までが描かれていて、基本的な情報を理解するのに役に立った。

昭和陸軍や太平洋戦争に関する話は何かと意見対立があったり、色々な人が様々な立場から意見するので少し傍観していたくなる部分もあるが、大まかな流れを知っておくことは重要であると感じる。

わたしとしては、基本的に本書も組織論の視点から考えつつ、付随的に陸軍や戦争に関する基礎知識の確認するというスタンスで読んだ。

予算の差配をできる部署が権力を持つといったことや、人事が人の恨みを買うということ、組織論として、とある集団に一定の色分けが生じるのは必然であることや、権力を有すれば有するほど、組織内外における敵対者は必然的に多くなること等々、会社などの組織においても共通する事項が多く参考になる。

実際のところどうだったか判断がつかないところもあるが、仮に本書のとおりだとすれば「皇道派の青年将校たちの眼からすると、永田は『腐敗した軍中央の象徴』のように映った」というのは、本人がそう思っていないととしても、周囲にはそう見えてしまうという可能性は十分にあるといえる。

特に偉くなればなるほど、なかなか本人と直接話す機会もないだろうし、そういう状況下で周辺情報から誤って解釈してしまうのは避けがたいことなのかもしれない。

下の者の身としては、周辺情報だけですぐに判断しないことが重要だと感じる。これは何においても当てはまることだが、一方の情報だけではなく、もう片方(反対意見や反論)の情報にも接して検証することが肝要ということだろう。

これをきっかけにして、陸軍に関する色々な書籍にもう少し目を通していきたいところ。

一言学び

組織論として、とある集団に一定の色分けが生じるのは必然である。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」 (文春新書) [ 早坂 隆 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2024/11/4時点)


コメント

タイトルとURLをコピーしました